既存の資産を活用した国際系大学を構想
国際教養大学の発足には、秋田県が誘致したミネソタ州立大学秋田校(MSU−A)の失敗が背景にある。同校は、バブル経済の勢いに乗って1990年度に開学したものの、専修学校という位置づけで学士号が授与できないこと、高い授業料などが原因で学生確保が難しくなり、03年度いっぱいで閉校した。
多額の税金を投入していた県は、校舎などの資産を生かす道を探るため、98年10月に「秋田県高等教育推進懇談会」を設置。そこでの議論をベースに00年4月、「国際系大学(学部)検討委員会」を立ち上げた。MSU−Aでの教育を通してミネソタ州との友好関係ができたことや、10年以上にわたりアメリカの大学として英語教育を手がけてきた実績や専用施設の流用を前提とする以上、国際系大学をつくるのは妥当な選択だったといえる。しかし、18歳人口が減少する中での大学新設とあって県議会からは反対もあり、いったんは委員会が中断。その後は、どのような大学を目指すか本質的な議論を経て県議会も了承し、02年3月、「国際系大学(仮称)創設準備委員会」の設置にこぎ着けた。
検討委員会と創設準備委員会の委員長を務めた中嶋嶺雄学長(前東京外国語大学学長)は、「社会状況を考えれば大学新設はリスクが大きい。それでもつくるのであれば、今までの日本にない大学、本当に21世紀の国際社会で活躍できる人材を育成できる大学でなければ意味がない」と考え、思い切った国際教育を行う大学のビジョンを打ち出した。運営についても、日本初となる公立大学法人方式を採用したのである。
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