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【論考】教養教育の今日的必要性を考える

2014年11月18日 掲載
 ベネッセ教育総合研究所 高等教育研究室 特任研究員 満都拉(マンドラ)

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 今日、教養教育への重視がますます高まり「今こそ教養教育」や「教養教育の復活」という言葉はよく耳にするようになっている。しかしその中、なぜ今こそ教養教育なのか、教養教育の今日的意義とは何か。こうした教養教育の意義をめぐる問題は必ずしも検討されていないと言えよう。

本稿では、従来の教養教育の捉え方を概観したうえで、再び教養教育が重んじられるようになった背景を分析し、教養教育の今日的必要性を再考してみたい。

 

戦後の日本社会における教養教育とは

 戦後、日本の大学はアメリカの一般教育の理念を広く導入し、「人文科学関係」「社会学関係」「自然科学関係」とした幅広い知識の習得を目指した。しかし、教養教育を行う上で、①大規模かつ一方通行的な授業形式への不評や幅広い知識を有する教員の不足、②教養と専門の対立、③高度経済成長に伴う実学志向の高まり、など様々な問題が生じ、教養教育の定着が難航した。

1991年「大学教育の改善について―大学設置基準の大綱化―」が発表され、一般教育と専門教育の区分と、一般教育の科目区分が廃止された。1996年になると国立大学における一般教育課程と教養部すべてが姿を消すという事態が起き、その反面、専門教育を中心とした学部教育の編成が進められた。

総じて、当時の教養教育は哲学や倫理学、社会学、自然科学など一般教養的な基礎知識を幅広く習得することを強調したものの、実学的な要素を欠かし、言わば「知識の量の多寡」によるものになりがちだったと指摘できる。

 

教養教育の新たな展開

2000年以降、教養教育体制の解体が懸念され、2002年中央教育審議会答申において「新しい時代における教養教育の在り方について」が発表され、「新しい教養」が提唱された。

その具体的な内容は以下のとおりである。

(1)主体性ある人間としての自立する力、新しい時代の創造に向かう行動力、他者の立場に立つ想像力。

(2)グローバル化にともなう異文化理解とそのための語学能力。

(3)科学技術についての理解とそれらの技術に関する倫理的判断力。

(4)国語力としての古典的教養。

(5)礼儀作法をはじめとする身体的修養。

そのうえ、教養教育の必要性について「自らが今どのような地点に立っているのかを見極め、今後どのような目標に向かって進むべきかを考え、目標の実現のために主体的に行動していく力をもたなければならない。この力こそが、新しい時代に求められる教養であると考える…(中略)…一人ひとりが自らにふさわしい生き方を実現するために必要な教養を再構築していく必要がある」とした。

新しい教養教育は、「自らのふさわしい生き方 」「自分の誇りの持つ生き方」「自尊意識を構築していく、一人ひとりの個人を育成する教育と位置づけられた。同時に、個々人の育成のみならず「教養のある人は品格のある人」であり、品格ある個々人から成り立つ社会は「品格ある社会」として輝くのであり、教養教育はこうした個人の育成と社会の実現に繋がるものとされた。

 

国際教養的な視点の導入

21世紀に入り、グローバル化が進展するに伴い国際教養的な観点も広がりを見せた。具体的に「自我」「家族意識」「社会意識」「地域感」「国家感」「表現力」「理解力」「行動意識」「道徳心」の国際教養人の8ケ条件が強調され、日本人としてのアイデンティティを持ちながら他の国や地域の伝統や文化に敬意を払い、国際社会の一員としての意識を持つことが主張されていた。

 

総じて、戦後から今日までの教養教育は「幅広い知識の習得」と「自律する人格・品格の形成」、「国際的な視点の育成」とした要素を重視することで、個人の成長から社会の実現、さらに共に生きる国際社会の実現を目指し、時代の進展とともに社会的な課題に対応してきたと言えよう。

 

教養教育の必要性を改めて考える

大学設置基準の大綱化以降、一般教育という用語が実際上使われなくなり、それに代替する言葉として「リベラルアーツ」「共通教育」「初年次教育」などさまざまで、各大学における教養教育もまちまちだった。本稿では、こうした教養教育をめぐる背景を踏まえつつ、筆者ならではの視点として主にスキル・能力の利活用と情報の取り扱い、哲学や倫理学を軸にした学問の再構築といった3点から教養教育の必要性を指摘したい。

 

一、スキル・能力の利活用という視点からの必要

昨今、科学技術の発展と国際社会の進展に伴い、多種多様なスキル・能力が提起・提唱されている。例えば、国際的にはOECDや世界中の各大学が取り組むスキル・能力の開発プロジェクトが多々行われ、国内においても文部科学省や厚生労働省、内閣府など各機関から多種多様な能力要素が提唱されている。これらの能力要素の習得・育成が、当然ながら極めて重要であるが、それと同時にこうした様々なスキル・能力をいかなる価値観・価値判断のもとで用いるかもとても重要である。

では、こうしたスキル・能力の利活用に関わる価値観や価値判断をどう身につけるのか。各種のスキル・能力をどう利活用するかについて、いかなる教育が必要とされるのか。

筆者はこのような価値観・価値意識の形成こそが教養教育をなくして身につけられないものであると思う。前文で指摘したように、スキル・能力自体は無価値的なものであり、それをどう用いるかには価値観・価値意識の投入が必要とされる。しかしこうした価値観や価値意識は専門的なスキル・能力の教育では育成されることができず、そこには必ず哲学や倫理学などを基盤とした教養教育が必要となってくる。

 

二、膨大な情報をどう取り扱うかという視点からの必要

情報社会と言われてもう十数年経過しており、私たちはその中で様々な情報を入手・活用し、その享受者(=受信者)であると同時に、実は様々な情報の発信者でもあり続けている。なぜならば、情報は私たち一人ひとりの人間を媒介することによってその広がりを図るのである。

しかしながら、誰もが膨大な情報の取り扱いに苦悩されたり、入手した情報の信ぴょう性の判断に無理を感じたりした経験があるだろう。こうした情報の無限な広がりとその品質の氾濫は、実は人々の情報への無責任さを意味していると言えよう。

私たち一人ひとりが入手した情報をどう他者に届けているのか、そこには自他への責任感が同行しているのか。

こうした個々人に対する情報の取り扱いと取捨、他者へ発信する情報への責任感・倫理感はまさしく教養教育の今日的意味であるだろう。

 

三、哲学や倫理学を軸にした学問の再構築という視点からの必要 

 昨今、IPS細胞の開発とその受賞に伴い、日本国内外においてウィルスや細胞の研究開発をメインとした生命科学が活発化されつつある。こうした生命科学の進展は人間が従来達成できなかった万能細胞の生成に成功し、それによって復元できない細胞の再生が図られ、人間の健康や人類の進展に大きく貢献した。同時に、こうした生命科学領域の産業化も進み、科学技術の実用性を図る動きも盛んになっている。

 こうした新領域としての生命科学も従来からの環境エネルギー問題も、その基盤となるのは哲学や人間の倫理感、価値観であり、それをなくして、専攻のみを端的に進展することが無理である。学問の再構築から見ても教養教育の重要性と必要性が今まで以上であると言えよう。

 

主な参考・引用文献

1.『キー・コンピテンシー国際標準の学力をめざして』2006 ドミニク・S・ライチェン ローラ・H・サルガニク【編著】 立田慶裕【監訳】 今西幸蔵・岩崎久美子・猿田祐嗣・名取一好 野村和・平沢安政【訳】 明石書店 

2.『21世紀型スキル 学びと評価の新たなかたち』2014 P.グリフィン B.マクゴー E.ケア【編】 三宅なほみ【監訳】 益川弘如・望月俊男【編訳】 北大路書房 

3.『市場化する大学と教養教育の危機』2009上垣豊編著 洛北出版

4.『戦後日本産業界の大学教育要求―経済団体の教育言説と現代の教養論―』飯吉弘子2008東信堂

5.『教育の3C時代 イギリスに学ぶ教養・キャリア・シティズンシップ教育』杉本厚夫・高乗秀明・水山光春 世界思想社

6.文部科学省ホームページhttp://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/020203.htm

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