ベネッセ教育総合研究所 ベネッセコーポレーション
目標・指導・評価の観点を踏まえた学校づくりをどう進めるか
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小学校と中学校の評価の評価観の違いや課題は
司会 先ほど、村松先生から「評価」と「評定」を混同してしまうというお話がありましたが、評価と評定は具体的にはどこがどう違い、どういうふうに混同してしまうんでしょうか。
村松先生 「評価」というのは、その子どもの方向性を指し示していくもので、それがその子どもの学習の始まりになるようなものです。実際には「評価」のなかに「評定」も含んでいいと思います。だけど中学校で最初に「評定」が出てくるのが問題です。高校の先生が調査書で求めているのは、「評定」でしかない。
古川先生古川先生 私は小学校・中学校両方に勤めた経験があるので思うんですが、村松先生がおっしゃったように、中学校の先生方の頭は、中間、期末、学期末の評定、それから高校入試の調査書、指導要録、そういう節目節目の、まとめの評価、いわゆる総括的評価、評定が中心になってしまう。日ごろの授業をつくるという意味では、「村松くんはここでつまずいているから、次にこんな声をかけたらいいかな、こんなグループ学習させたら、ちょっとここで軌道に乗るかなあ」というような常に授業を修正していく、「そのつど評価」の形成評価が大切なはずですが、そういう考えは薄い。
 一方、小学校の先生は子どものランク付けより、むしろ日々の指導の改善のための評価、形成的評価を常に意識している。また、中学校の先生とは逆に、評定化することに抵抗感がある。それは、高校入試など、選別のための評定の場に臨んでいる中学校と臨んでいない小学校の先生との考え方のずれだと思います。
 ただ、小学校の先生には、「目標に準拠した評価は前からやってます」という自負と誤解がある。反対に中学校の先生は、初めての絶対評価で非常にとまどっている。しかしいま、中学校の先生は小学校の先生よりも頑張っているなあという実感がありますよね。ある意味で指導観を180度転換するような作業をしていますね。
 小学校の先生はこれまで、「見える学力」を中心にした到達度評価、「ここまでできた、覚えた、わかった」というようなことを中心にやってきた。だから、「見えにくい学力」、つまり「関心」「思考」だとかを丁寧に見てきていない。どちらかというと、「認定的評価」という教師の経験と勘によるものになっている。「どこに評価規準があるか?」というと「先生の胸の中」というように…。これは、小学校の評価が先に進みにくいネックでもある。いまはむしろ中学校の先生のほうが、とまどいは大きいけれど新鮮に受け止めてくれる可能性があるかなと思います。
司会 いまのお話を聞くと、小学校のほうがむしろ課題が大きい感じもします。古川先生は、今回、評価についての調査をされたと思うんですが、現場から出てきた課題等、具体的なことを教えていただきたいんですけれど。
古川先生 新教育課程に入った2002年夏に、目標に準拠した評価、いわゆる絶対評価の評価規準を現場でどのように受け止め、それに向けた評価規準づくりをどのように取り組んでいるかということを調査しました。
 1975(昭和50)年過ぎに梶田先生が国立教育研究所で通知表の第一次調査をなさって、1993(平成5)年に私たちが箕面市教育センターで第二次調査を行い、2002年の暮れ、第三次の通知表調査を行っています。評価観の変化を通知表を通して確かめていく調査なんですが、それは置いておいて、さっきの「目標に準拠した評価」がどのように受け止められてどう進んでいるかということですが、去年の夏休み時点でも、小学校8割、中学校9割ぐらいが、評価規準を持っているという回答でした。村松先生流に言うと、「持っている」ということと、「自分たちがつくった」ということは別なんですが、少なくとも「ある」、という状況はありますね。
 1990年代の「新しい学力観」のときには、当時の文部省が「評価規準表」という4観点のサンプルを単元レベルで示したのですが、10年間広がらなかったですよね。今回初めて先生方が本当に、「評価規準」ということを真剣に考え始めて、国政研からも規準例が次々出されてきたし、福岡、静岡、京都など先進的なところでの取り組みもあった。
 さらによかったのは、陣川先生の福岡市などは、緻密なものをつくられた。この作業はぼくらの地域でまだやっていませんけれども、いっぺんクリアしなければいかんやろうなあと思います。そのうえで、村松先生の静岡県のような、そぎ落としてそぎ落として、それでもそぎ落とせないコアになる目標として、単元単位のものをつくっていける。
 それを梶田先生の「評価は10時間なり15時間に1回でいいじゃないか」(講演参照)という言葉を額面通りに受け取ってもらうと、1時間1時間の見通しはどうするんやということになっちゃう。そこのところをわかったうえでやらないけない。
陣川先生 それがいちばん怖い。さっき述べたように、私は1983(昭和58)年まで福岡教育大学附属中学校におりまして、評価について研究してきました。しかし、1985(昭和60)年に教育委員会に入ってみると、学校では評価について「それなあに」という反応でした。それが福岡市の実態で、指導主事すら理解できなかったのです。まず、指導主事を研修して、規定教育計画にある事例として入れたんですが、十分じゃなかったですね。
 ですから今回、2001(平成13)年の3月に、まず指導主事を集めて、「1単元、1時間でいいから目標分類をつくってくれ」と言ったんです。3時間かかって非常に苦労してつくりました。時間切れでできなかった人もいました。だから、評価規準づくりはこんなに難しいんだと指導主事が知ったんですね。
 次に、指導課の指導主事2人と教育センターの指導主事3人と私で、延べ20時間研修しました。そのなかに、私の転出後に福岡教育大附属中に入った連中も3人いたものですから、非常に理解は早かった。彼らが目標分析、それから教科ごとの目標分類をわかってくれた。今度はこの人たちが指導主事に研修をして、その指導主事たちが、各教科の研究委員会を招集していった。そういう勉強会を6月いっぱいしました。ただし、そのなかには教科書の調査担当者がいましたから、名前は公表できなかったのです。7月に入って教科書採択が終わったので、7月14日、さっそく全員集めて、発足会をしたわけです。
古川先生 総合的学習が数年前に前倒しで試行されたときに、「総合は評価がいらないんだよ」という言い方をされ、非常に誤解を流布したんですよね。あれは、総合的学習の「評定」はいらないという意味であって、むしろ一人ひとりの問題解決に寄り添ってやるわけですから、そのつどアドバイス、評価をしていかないといけない。そうすると、形成的な評価の重要性はもっと高くなるんですよね。教科のように内容の縦軸・横軸がはっきりはしていないけれども、少なくともマトリックス的なものがいる。今回、指導主事なり、評価で中心になる人は、そんな誤解をさせないようにしてほしい。
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