Between 2002.7・8
特集 アドミッションズ・オフィスの役割

【寄稿】 全入時代のアドミッションズ・オフィスには
アドミッション・ポリシーを担う権限付与を

龍 城 正 明同志社大学教授
龍 城 正 明



〜はじめに〜
「AO」と「AO入試」の混同

 アドミッションズ・オフィス(以後「AO」)という組織名称が、日本の大学や短大で聞かれるようになってほぼ10年がたつ。その名称を冠したAO入試を日本で初めて導入したのは慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスで、1990年のことであるから正確には今年で13年目ということになる。
 その間、日本の18才人口の急激な減少と、将来的な少子化傾向に一層拍車がかかり、小・中・高校の教育事情は著しく変化している。本年度から学校週5日制が導入され、また03年度からは新教育課程が施行される。さらに、09年には「大学全入時代」の到来が予測されている社会情勢を受けて、今後は大学志願者にとって学力の低下や、入学への志望動機の希薄さがますます危惧される時期を迎えようとしている。
 このような情勢に伴い、日本のAO事情も大きく変化しなければならないはずであるが、残念ながら、AOに関してはいまだにこれが「新しい方式」であると勘違いしている大学関係者が多く、ほとんどが旧態依然とした概念で捉えられているのが現実である。重大な問題は、本来あるシステムを遂行する組織を表す「AO」が、現在日本の大学で行われている「AO入試」とは全く別の概念であることが認識できない点であろう。日本の大学の場合、入学とは入学試験に合格することであり、いかなる形態であろうと、入学には選抜試験が必要だと考えられてきた。しかし、昨今の少子化や社会人を含むさまざまな学生に対処するのに、大学への入学者選抜方法として従来の筆記試験だけに頼る方法にも限界が生じてきた。
 そこで、AO入試が入学者選抜制度の多様化の一端として一躍注目を集めることになるが、本来組織やシステムを表すAO制度が、日本ではAO方式による入試選抜と同義語として扱われ、さもこれが、理想的な選抜方法として多くの大学や短大で採用されるに至った。しかし、ここ数年来AO入試に関する議論が噴出し、この入試形態が、本当に現状の大学事情を救う救世主になりうるか否かという点で問題視されてきた。確かにAO入試にはメリットがある。反面、理想と現実のギャップが出てきていることも否めない。
 そこで本稿では、同志社大学のAO入試を例にとりながら、AO入試が抱えている理想と現実、メリットとデメリットについて考えるが、今回は特に組織、制度としての「AO」とは何か、そして、なぜ「日本型AO入試」という形態が問題となってきたのかを検証していきたい。



AOという組織の現状と問題点
〜同志社のAOを中心に〜


 多くのアメリカの大学と交流協定(学生および教員)を持つ本学では、早くからAOに関する情報収集を始め、公式な委員会として、96年に「アドミッションズ・オフィス検討委員会」が設置された。97年度から各学部から選出されたAO委員が、AO入試実施に向けて議論を戦わせ、検討委員会から出された答申を基本姿勢とし、98年度からAO入試が実施された。しかし、AO入試としてスタートを切ったのは、神学部、文学部(英文学科・社会学科)、商学部、工学部の4学部2学科であり、同志社ではAO入試に関し、スタート時から全学的な意志統一ができなかったのである。筆者は97年度からAO入試制度の実施にかかわってきたが、現在もなお議論の中心となっているのは、入学判定に絶対的裁量権をもつ学部とAOとのかかわりである。
 本学では入試全般を扱う部課として「同志社大学入試センター」があり、入試に関する事項は広報も含め、ここで一切を管理している。AO入試はこれとは別組織で扱われ、AO委員会とAO事務室がこの業務にあたっており、AO委員会は、AO所長、教務部長、学部から選出された教員8人、AO職員3人の計13人で構成されている。しかし、AO所長は入試センター長がこれを兼務し、現在に至るまで変更されていない。すなわち、AO委員会も入試の一端を扱う委員会という理解から、事実上入試センターの傘下に入っているのである。AOという性格上、審査(選考)に関する権限はAO委員会にあるとされるが、最終判定は学部教授会で決定される。これは入学判定にかかわる学部教授会の権限上の問題であろうが、これが、まず現在のAO制度が抱える最大の問題点であるといえる。この論点に関していえば、問題点は組織や制度としてのAOとAO入試という二つの異なった概念の解釈にありそうで、以下ではこの点を中心にAO入試の問題点について考えてみたい。
 本学のAO入試とは「学力のみを重視する伝統的な選抜方法ではなく、受験生が備えている能力や技能などを重視し、自己アピールできるものを第三者に説明し、説得できる能力を有している学生を募るが、いわゆる一芸一能入試とは異なり、大学教育を受けるに十分な基礎学力を備えていることが重要であり、受験資格を満たしていれば自分の意志で出願できる自薦型の公募入試」である。従って、「受験生の等身大の能力を見極めるために、エッセイや面接重視の手間ひまをかけた選抜」を行うことをモットーとしている。
 もちろん他校のAO入試の多くが、出願時期やその回数に工夫を加え、また選考方式にも学力重視型や面接・対話重視型、スポーツ・技能重視型などさまざまな方式を採用している。しかし、いずれのAO入試も「選抜」であることに変わりはない。それも本学では、AO入試の募集枠が極めて小さいという問題をも抱えている。本学の場合、03年度は神学部2人、文学部39人、商学部25人、工学部20人の計86人(昨年度比2人減)である。この中で文学部の募集人員が多いようにみえるが、文学部は3学科に分かれており、英文学科では10人の枠があるものの、文化学科、社会学科はそれぞれ6専攻、4専攻からなっており、専攻単位だとわずか1〜4人で、文学部全体の入学定員である1092人の中でみれば極めて少ない。
 どの学部も入学定員の2〜3%という募集枠の中で応募してくる受験生に対し、入学を許可するには、どのような魅力的なキャッチ・コピーを掲げようと、最終的には厳しい選抜をしなければならないのである。当然ながら、この点で、どこがその選抜の最終判断を下すかという問題が発生する。従来の方式に従えば、「入学、卒業に関する決定は各学部教授会の専決事項である」という点から各学部教授会ということになろう。



「選抜」ではなく「入学審査」がAOの本来の役割

 しかし、AOという制度を考えた場合、それで良いのだろうか。すなわち、AOという機関の本来の理解である。本来のAOとは入学許可要件を審査する部課であり、ここでの役割はアドミッション・ポリシーすなわち「入学者受け入れ方針」を明確に示すことにある。アドミッション・ポリシーとは「その大学に適した学生を見いだすこと」、また「学生からは自分たちに適合した大学を選択してもらうこと」ができるような方針である。もちろんこれは学部、学科等の募集単位に沿った方針であることが望ましいが、最終的にはその大学に入学してくる学生にかかわる要件であるので、大学側が明確なアドミッション・ポリシーを打ち立てる必要がある。そして、この方針に基づいて多様な観点から学生を見いだすことを試みるべきである。
 このような具体的な方針の策定がAOの役割であり、重要な点は、このような役割を持つAOと、常に試験を実施して合否判定を伴うAO入試とが同義ではないという点である。AOには大学のアドミッション・ポリシーを策定し、それを遂行する業務があり、そのためにAO独自の方法で入学者の審査を行うことができるのである。
 審査を行う以上は、アドミッション・ポリシーに適合しない学生に対しては入学許可を与えない場合もあり得るが、これは現在AO入試の名を借りて実施されている合否判定を含むような選抜制度とは根本的に異なる。すなわち、受験者を「ふるい落とす」ための制度ではなく、入学者の適性を「審査」する制度なのである。試験による選抜業務が伴わないとすると、選抜に必要な試験問題や面接のための口頭試問作成に時間をかける手間はないはずである。大学がその任務を委ねているAOでは、入学志願者の適性審査に関してのみ判断すればよいことになる。その結果として、AOが絶対的な権限を持ちうる部課であるはずなのだが、現実はどうもこの限りではない。
 この点が不明瞭なままスタートする「日本型AO入試」なる制度が横行し、結果としては「受験生」を「選抜」しなければならず、それも極めて少ない応募枠の中から受験者をふるい落とすような感が強い、あまり評判がよろしくない「日本型AO入試」が定着しつつある。
 本学でもAOが設置されたにもかかわらず、この問題が未解決のままAO入試がスタートしたので、いまだに最終合格決定の際に、学部教授会の判断を仰ぎ、AOが提示した合格リストにクレームをつけられ、教授会主導型の合格発表を余儀なくされるケースが時たま生じている。AOという本質が理解できればこの問題は解決できるはずであるが、現行の制度下では、学部自治という問題、学部がもつ入学定員の問題、さらには判定業務に職員も含めた委員を常設することによって起こりうる危惧など、解決されるべき問題が山積しているのも事実である。
 かといって、入学判定を伴うAO入試を各学部が個別に実施するとなると、本来のAO、すなわち大学としてのアドミッション・ポリシーを提示するという観点から遠く離れてしまい、結局は学部主導型の自己推薦制度と何ら変わりのない制度になってしまい、この点が現在のAO入試の大きな問題点になっているのである。



「優秀な素質発掘の場」が全入時代前夜のAO入試の現状

 これまでのように、受験者が「多くいた」日本の大学では、入学許可には試験を実施し、志願者を選抜しなければならなかった。しかし、昨今の少子化で大学受験者がどんどん減少し、このままでは大学全入時代を迎えようとしている現状を、大学の教職員はどのように捉えているのか。全入時代を迎えるということは、いかなる選抜試験も必要なくなる日がいずれやってくるということである。それに備えて、多様な入学形態(選抜入試ではない!)を模索する中で浮かび上がってきたのが「AO入試」(まだこの段階で、ほとんどの大学が「入試」ということばを用いている)であった。
 しかし、このような日本型AO入試は、アメリカ型AO制度とは本質的に異なるのである。ではなぜアメリカ型AO制度の導入ができないのか。もちろん上にあげた、これまでの日本の大学事情による点は否めないが、今ひとつ重要な点は、少子化が進み入学志願者が減ったとはいうものの、すべての大学で全入時代に突入したわけではないという点であろう。少なくとも2000年代はまだ、すべての志願者が志望大学に無試験で入学できるほど、大学の門が「広き門」とはならないであろう。一般選抜入試を含み、まだまだ受験戦争は一部で続いており、極めて厳しい選抜が実施されている。言い換えれば、どのような入学形態をとろうが、大学入試の選抜方法は厳正に行われ、かつ学力を重要条件として加味した上で選考されねばならない。従って、入学志望者にとっても、AO入試を受験するには大変な労力が伴う。
 例えば、本学への出願者は学力的な水準を確保している上に、本学に強い志望理由があり、自治自立の精神を持つことが条件とされ、書類選考で合格した候補者には30〜45分間程度の口頭試問が課せられる。それも3〜5人の委員が矢継ぎ早に質問を浴びせるのである。これだけの試練に耐えうる学生を求めているとすれば、本学のAO選抜に合格する学生はかなり優秀な素質を備えた者だといえる。しかしこの例からもわかるように、現時点でのAO入試とは、本学のみならず、特殊な才能をもつ人材を早期発掘する制度ということになってしまう。



21世紀のあるべきAOとは「入学してもらう」ための方策立案

 では、将来のAOとはどのような姿が望ましいのか。もし本当に全入時代が到来し、すべての学生がどこかの大学に入学できる時代が始まったとしよう。ここでの全入時代とは日本の国公私立「すべて」の大学が学力的にもほぼ同ランクとなり、従って、偏差値を基準にした競争がなくなった時代を想定するのである。そこでは定員割れを起こさないために、できるだけ多くの学生を受け入れなければならない事態が起こることも十分に予測される。その際は大学を選ぶ権利は学生にあり、志願者は自分の個性に合う大学を探すことになるであろう。当然従来の受験戦争型の志願者に対して実施した「ふるい落とすための試験」ではなく、志願者に「入学してもらうための方策」を考える必要がある。ここで重要なのは、大学側が「入学してもらえるような」大学の個性と理念を明確にアピールすることであるが、このような方策を考えるのはどの部課であろうか。
 現在のように、教育と研究を主とする教員集団からなる学部がその方策を考えていくことになるのであろうか。これも決して無理とは言わないが、教員の能力には限界がある。現在でもAO入試の審査を行う教員の負担は大きい。本学では第1次書類選考は約2週間という短期間でこなさねばならず、教員委員は授業の合間をぬって、出願者から提出された大量の書類を数時間読み続けることになる。志願者1人につき3〜5人の委員が審査を担当するという規定に基づいて、かなりの時間を書類審査に費やしている。募集人員の少ない文学部の心理学専攻では、2人の合格者を選出するのに、手間ひまをかけて、慎重に49人の選考にかかわらなくてはならないという事態が起こる。選考に関しては常に徒労感がつきまとうゆえんである。
 しかもその負担に配慮してAO委員が授業時間を軽減されるでもなく、研究時間は相当数削減されているはずである。それも現在のシステムでは選抜結果を要求されるので、口頭試問に関するトピックの選定、エッセイのタイトルなど、選抜試験としての準備とそれに伴う採点業務など、その負担の大きさは枚挙にいとまがない。  しかし、近い将来、多くの志願者が応募してくるような方策を考案するのがAOの業務であるとすれば、それはやはり、その道の専門家、それぞれの大学の個性と特徴をアピールできる能力を備えた専門集団が当然必要になってくる。入学志望者(受験者ではない)は、どの大学に入学するかを志望するだけでよく、学部ごとの入学選抜試験は言うに及ばず、各種選抜試験も必要なくなる時代が到来するだろう。大学としては、成績(例えばセンター試験や TOEFL、TOEICなどの英語成績のボーダーを含む)をはじめ、一定の基準を定め、それに適合した学生を「アドミット」しさえすればよい。現行の「入試」という形態をとる限り、成績(筆記、口頭試問など)の結果を「合否判定」せねばならず、判定機関が必要なため学部との主導権争いとなる。
 しかし真の意味のAO制度が確立すると、AO業務は、アドミッション・ポリシーに基づき志願者の「適不適」を審査するだけなので、「合否判定」とは自ずと異なる業務となる。そのための機関がAOであり、要は「判定」と「審査」の違いを明確に理解することが必要なのである。審査方法は「アドミッションズ・オフィス」に一任し、そのスタッフは全国、否全世界を駆けめぐって大学が定めた基準に適合する入学希望者を探してくればよいことになる。そのための事務的処理、学生確保のアピールの方策、そういったものを画策する専門部課としてのアドミッションズ・オフィスが必ずや必要となってくるはずである。
 その時点では、大学(学部)としてはAOが認可した学生を教育していれば十分で、「良い学生」は、大学に入学した人材の中から教養教育を経て、3〜4年次生から将来の研究者や専門職にふさわしい学生を育て、大学院教育へと導いていく。入学時点から「成績の良い」学生を望むのではなく、このような教育システムを構築することが、今後の来るべき大学の姿であると思われる。



〜おわりに〜
専門の教員と職員からなるAOを


 筆者は、日本型AO(入試)制度と呼ばれる現行のAO制度は早晩崩れると思っている。来るべき21世紀のAO制度は必要だが、その際は大学の教育システムが変わり、その結果、独立した組織としてのアドミッションズ・オフィスが設立されることが必定であろう。そこでの構成員は専門の教員と専任の職員からなり、各大学をアピールできる方策を常に画策し、大学への入り口業務を一手に引き受ける組織作りが必要である。
 本学でもAO入試導入から4年を経た現在、根本的なAO制度の見直しが急務とされている。先日も本年度新しく組織された「新AO入試構想策定委員会」からAO入試実施学部・学科・専攻に対し、アンケート調査を実施した。残念ながら本稿執筆段階でその結果を報告することはかなわないが、主な調査項目は「AOの入学者数について」「AO生と一般入試生との相違点」「AO生の成績」「AO入試に関する負担」などがある。筆者の予想としては、AO生の数については「少ない」と感じる学部が多く、AO生の成績に関しては「普通からやや劣る」という回答が多いのではないかと危惧する。またAO入試業務に関する負担は「重い」と感じる教員が多いはずである。
 それに加え、今ひとつの根本的な問題は、筆者が今回挙げた問題点の一つである「AOとAO入試を区別して議論する」という考えが委員会に反映されていない点である。これは、委員会の名称が「新AO入試構想策定委員会」であることからも容易に理解できるように、AOはあくまで入試の一環として捉えられているからである。AOの役割・意義とは大学のアドミッション・ポリシーを担う独自の権限をもったAO組織の編成と、それに対して理解を示す学部教授会を含む大学組織の再編である。このような大学の教育改革ができて、初めてAOの意義が生まれてくる。AOを入試制度としていくら新しい構想をめぐらせ、議論しても、AO本来の意義は理解されない。「AO本来の趣旨に戻って考える」ことが必要なのである。
 厳しいようではあるが、現時点での選抜試験を前面に出したAO入試制度は、今後もその効果は生まれてこないであろう。もちろんある一定期間、AOの志願者は増えるとしても、今後止めどもなく増加していくことはあり得ないといえる。それを予言するかのごとく、本学でも志願者数は01年度入試の476人に対し、本年度は400人と減少傾向にある。これは、受験した学生にとっても現在のAO入試制度がいかに大変で、その割に報われない結果を知り、その評判が徐々に浸透しつつあるからであろう。現行のAO入試では、着実に勉学に励んでおりさえすれば、一般選抜入試で受験する方がずっとその合格率は高いのであるから。今こそ日本の大学もAO制度とは何かを考え直す時期に来ているといえよう。


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