Between 2002.12
特集 eラーニングと変わる通信教育

【寄稿】 大学改革の中の通信教育
〜ITと規制緩和がもたらすもの〜

 

鈴木 克夫(財)私立大学通信教育協会研究事業課長
鈴木 克夫

 


五つの局面から大きく変貌する通信教育

 ここ10年くらいの間に、大学通信教育は制度的にもその実態においても大きな変貌を遂げている。
 第一に、実施校数が急激に増えている。1977年度以降、17年もの間、新たに通信教育課程を設置する4年制大学はなかったが(放送大学を除く)、1994年度から2002年度までに実に15校が開設し、27校になった。10年にも満たない間に倍以上になったわけである。今後もある程度の増加が予想されており、独立行政法人化する国立大学が通信教育に進出する可能性すら否定できない。
 第二に、通信制大学院の登場である。日本大学をはじめとする4校でスタートした1999年度は、入学定員260人、出願者数1428人、平均倍率3.57倍というまずまずの結果であった(4大学院の合計)。2002年度には13校にまで増加し(放送大学を除く)、さらに2003年度には、日本大学、聖徳大学、佛教大学の3校が博士課程を開設する。
 通信制大学院は、これまでの大学通信教育とは性格が大きく異なる。まず、通学制と同じ教育・研究の質を維持する必要から入学定員が通学制と同じく少なく抑えられている。そのため、筆記試験や面接による入学者選抜が行われる。修士論文はほぼ必修で、丁寧な個別指導が行われ、ITの活用も積極的に図られている。一方、授業料は通学制ほどではないが、かなり高額のところも多い。こうした性格は、通信制大学院が学部段階の通信教育の単なる延長ではなく、社会人大学院の一形態として位置づけられていることを意味している。しかし、それは学部段階における通信教育の一つの未来型と考えることもできる。通信制大学院は、これまでの大学通信教育のイメージを大きく変えたと言えよう。
 第三に、通信教育を実施する学校数が増えたのに伴い、学部・学科や専攻が多様化し、これまでになかった分野でも通信教育が実施されるようになった。芸術系や福祉系の学科、あるいは心理学系のコースを設置する大学も出てきた。大学院では、自然科学系の分野も設置されている。また、人間総合科学大学のような独立制の「通信教育学部」、つまり通学制のない通信制だけの私立大学や、日本大学の通信制大学院のような独立研究科や独立専攻も登場した。さらに、通学課程と通信教育課程とを同時に新設する大学などもある。
 第四に、ITの活用である。ホームページ上での情報提供はもちろん、キャンパスそのもののバーチャル化も進められている。また、入学者全員にパソコンを貸与したり、学生の側にネット環境が整っていることを入学条件として、ネット出願、ネット入試を行う大学・大学院まで登場した。一方、2001年3月に大学設置基準等が改正され、これまでの「テレビ会議式の遠隔授業」に加えて、「インターネット等活用授業」も遠隔授業の一つとして認められた。早稲田大学人間科学部は、卒業に必要な単位のほとんどをこのインターネット等活用授業によって修得させる通信教育課程を2003年度にスタートする。
 第五に、大学通信教育で学ぶ学生像も変化している。とくに、女性の増加(2002年度は57.1%)、高学歴化(入学者の半数を高等教育機関の卒業者が占める)、卒業率の上昇(1989年は約10%→2000年は約21%)などの傾向が顕著である。
 以上のように、大学通信教育は大きく変貌しており、期待の高まりも感じられる。その背景には、生涯学習の浸透、社会人の学習意欲の増大、18歳人口減少に伴う大学経営の危機など様々な要因が考えられるが、もっとも強力な追い風となっているのがIT(情報通信技術)と規制緩和であることは間違いない。大学通信教育は高等教育の表舞台、それも最前列に立とうとしているといっても過言ではない。
 しかし、ITと規制緩和は、大学通信教育のみならず高等教育全体を根本的に変えようとしている。このような大学通信教育への期待の高まりは一過性のものに過ぎず、やがて大学通信教育は大きな流れにのみ込まれ、消え去る運命にあるという考え方も成り立つ。はたして、どちらが真実なのだろうか。



通信教育の専売特許であった「開かれた大学」への回帰

 天野郁夫氏(国立学校財務センター研究部長)によれば、戦前期の高等教育機関、とくに私立専門学校は「開かれた」高等教育機関として出発し、決して若者だけの学習の場ではなかったという。「別科」や「専門部」といった形で、勉強したいという意欲さえあれば事実上だれでも利用できる機会がちゃんと用意されていたのである。しかし、それは正規の中学卒の数がきわめて限られていて、学生の供給源を中学卒以外のところに求めなければならなかった大学側の事情によるところが大きい。いいかえれば、「開かれて」いることはマイナスの意味をもち、そこから抜け出して「閉ざされた」高等教育機関になることが目標とされたのである(「開かれていた高等教育――戦前期日本の経験」『IDE現代の高等教育』第277号、1986年11月より)。
 戦後、「開かれた」高等教育機関としてスタートした大学通信教育は、そうした戦前期のいわば隠蔽された伝統が、「教育の機会均等」とか「大学の門戸開放」といった積極的な理念をまとって再登場したものと見ることもできる(もちろん、大学通信教育は大学入学資格のある者を前提とした正規の課程であり、戦前期の別科や専門部と同一には扱えない)。そして、学歴主義の浸透や受験競争の激化などで大学がますます「閉ざされて」いくなかで、生涯学習あるいは社会人の再教育のための「開かれた」高等教育機関の役割を一手に引き受けてきたのである。
 臨教審から大学審、そして現在の中教審にいたる大学改革の一つの大きな柱が、「開かれた」大学づくりであることは誰しも認めるところである。それは、(1)いつでも(入学時期、授業時間、修業年限など)(2)どこでも(履修場所、居住地域など)(3)誰でも(入学資格、科目等履修生など)、そして(4)学習歴を生かして(単位認定、編入学、大学評価・学位授与機構による学位の授与など)という四つの方向で進められる規制緩和だと考えることができるのではないか。しかし、「いつでも、どこでも、誰でも」といえば、これまでは通信教育のスローガンとして掲げられてきたものである。また、そこでは学習歴を生かした学習者の流動が日常的に行われてきたことも間違いない。それは、「開かれた」高等教育機関としての大学通信教育の専売特許であったはずである。
 いま、一連の大学改革(すなわち規制緩和)は、戦前期のそれとは性格が異なるとはいえ、高等教育機関を「開かれた」ものに回帰させようとしている。



通学制でも卒業単位の約半分が自宅受講可能に

 その大学を「開く」強力な手段としてにわかに注目を浴びているのがIT、とりわけインターネットである。
 大学における授業は、「講義、演習、実験、実習若しくは実技のいずれかにより又はこれらの併用により行うものとする」(大学設置基準第25条)となっているだけで、遠隔方式によって単位を与えることを必ずしも禁止していたわけではない。しかし、大学通信教育設置基準第3条は、上記の方法による授業を「面接授業」と名づけていることから考えると、授業は直接の対面で行われるものであって、「遠隔授業」は想定していなかったことがわかる。
 そこで、1998年3月に大学設置基準が改正され、まず「テレビ会議式の遠隔授業」が認められた。しかし、この「遠隔授業」は、直接の対面授業と同等の教育効果をもたせるため、それに近い環境で行われることが大前提になっていて、文字、音声、静止画、動画等の多様な情報を一体的に扱うとともに、同時・双方向、かつ教室、研究室またはこれらに準ずる場所で履修させるというきわめて厳しい条件がつけられている。これでは学習者は、相変わらず決められた日時に決められた場所に集合して授業を受けなければならない。つまり、あくまでも「通学制」の授業形態として位置づけられたわけである。
 2001年3月、再び大学設置基準等が改正され、「テレビ会議式の遠隔授業」に加えて、「インターネット等活用授業」も遠隔授業の一つとして認められた(図表1)。
 この「遠隔授業」では、文字、音声、静止画、動画等の多様な情報を一体的に扱うことは求められるが、同時・双方向でなくてもかまわない。また、教室、研究室またはこれらに準ずる場所で履修させる必要もない。つまり、学習者は自宅で好きな時間にオンデマンドで受講することが可能となった。あくまでも「通学制」の授業形態であった「テレビ会議式の遠隔授業」とは性格が大きく異なることは明らかである。その一方、毎回の授業で設問解答、添削、質疑応答などを実施したり、ホームページ上で学生同士の意見交換も行われるなど、授業の後の指導や学生間のコミュニケーションが重視されていることが特徴になっている。
 この「インターネット等活用授業」を含む「遠隔授業」によって修得できる単位数の上限は、通学制では大学を卒業するために必要な124単位のうち60単位までである。しかし、卒業に必要な単位の約半分を自宅で好きな時間に受講することが可能になったことは画期的な改革である。また、「遠隔授業」は外国でも履修させることができるので、外国に住んでいる学生(日本人であるか外国人であるかは問わない)に対して、国境を越えた単位認定や学位の授与を行うことも可能になった。
 通信制では、「面接授業」と「遠隔授業」とは全く同等に扱われる。つまり、「遠隔授業」を30単位以上修得することで、「面接授業」は必要なくなる。したがって、「面接授業」のない「完全」通信制が少なくとも制度上は実現したわけである。さらに、卒業に必要な124単位のすべてを「遠隔授業」によって修得することも可能である。そのため、外国在住の学生に対する単位認定や学位授与は通学制よりもさらに容易となる(図表2)。


図表

図表



やがてなくなる「通学制」と「通信制」の区分

 「インターネット等活用授業」が通学制の授業で活用されるようになれば、「通学制」と「通信制」という制度上の区分はやがてなくなる。
 数年前、ある会合で私がこう述べたところ、某大学の通信教育部の職員から、通信教育で学んでいる学生や卒業生に対して失礼だと叱責されたことがある。こんな夜郎自大(やろうじだい)な批判をする人は今ではもういないと信じたい。「通学制」であるか「通信制」であるかは学習者にとって大した問題ではなく、それぞれの学習環境や学習ニーズに応える質の高い教育が数多く提供されることが期待されるだけだからである。
 ところで、通信制大学院の制度化を提言した1997年12月の大学審答申は、「通学制」と「通信制」の区分について、「現段階において一般に普及しているマルチメディア技術の水準等を踏まえ、現行制度からの円滑な移行という観点から、当面は、従来どおり通学制と通信制という区別を維持した形で通信制大学院制度を発足することとし、その後の技術の進展に対応して、大学院制度及び設置基準全体の在り方を再検討するというステップを踏むことが適当である」という慎重な見解を示していた。
 しかし、2000年11月の答申「グローバル化時代における高等教育の在り方について」では、「将来的には、卒業に必要な単位をどのような形態の授業方法により修得させるかは、各大学の教育方法の選択の問題として捉えることとし、通学制と通信制の区別の在り方について見直す方向で検討することが必要である」という一歩踏み込んだ考え方に変容している。この間、わずか3年である。変化のスピードは想像以上に速い。
 「通学制」と「通信制」のボーダレス化は3段階に分けられる(図表3)。すなわち、1998年に「テレビ会議式の遠隔授業」が授業の方法として位置づけられたことによって、通学制の大学が「遠隔教育(教える者と教えられる者とが空間的に隔てられているという意味で)」を実施できるようになったことが第一段階である(ボーダレス度15%)。さらに、2001年に「インターネット等活用授業」が遠隔授業の一つとして追加されたことによって、非同期・在宅受講が通学制においても60単位まで認められたことで、現在は第二段階まで進んでいる(ボーダレス度50%)。そして、そこからおのずと第三段階として以下のような政策が予測可能となっている。
 第一に、最も単純な方法は、通学制において「遠隔授業」によって修得できる単位数の上限(現在60単位)を引き上げることである。これについては、すでに政府の産業構造改革・雇用対策本部による雇用創出策・雇用対策の中間まとめで提言され、これによって大学等の社会人の受け入れ数(現在30万人程度)を5年間で3倍に増やす計画が打ち出された(日本経済新聞、2001年6月14日)。もしも、仮に上限が撤廃されることになれば、「通学制」と「通信制」の区分はほとんどなくなる。唯一の違いは、通信制では「印刷教材等による授業」と「放送授業」を実施できるが、通学制ではできないということだけである(ボーダレス度80%)。
 第二に、大学における授業の方法を「面接授業」と「遠隔授業」の二つにしてしまうことである。もともと、「印刷教材等による授業」も「放送授業」も、広い意味では「遠隔授業」だからである。さらに、「大学通信教育設置基準」を廃止し、「大学設置基準」の中に「遠隔授業」を実施する場合の要件を示すことである(ボーダレス度100%)。1997年の大学審議会大学院部会における通信制大学院に関する審議の際、「大学設置基準」に対して「大学通信教育設置基準」があるように、大学院についても「大学院設置基準」とは別に「大学院通信教育設置基準」を新たに制定するのが自然であるという意見もあったが、大方の賛成を得られず、結局は大学院設置基準の中に「通信教育を行う修士課程を置く大学院」という章が設けられた経緯がある。今から考えれば、それでよかったと私は思う。今度は、大学院にならうべきだろう。


図表



高等教育の全体構想の中に通信教育を位置付ける

 そもそも、通信教育を一つの「教育方法」としてすべての大学が自由に実施できるのではなく、「通信制(通信教育課程)」という制度の中に封じ込め、そのために、結果的にごく一部の大学だけがこれを実施してきた大学通信教育の歴史そのものに問題がなかったか検討する必要がある。
 学校教育法は、高等学校については「全日制の課程又は定時制の課程のほか、通信制の課程を置くことができる」(第45条)としているが、大学については「通信による教育を行うことができる」(第54条の2)とあるだけで、「通信制」とは書かれていない。ところが、大学通信教育はその制度創設時から一貫して「通信教育課程」として設置され、実施されてきた。そのため、大学通信教育といえば「通信教育課程」のことをさし、これを設置するためには「課程」としての完結性が求められ、通学課程が授業の一部を通信教育という教育方法で実施することはこれまで認められなかった。ITの発達によって、新たな教育方法として生まれ変わった通信教育を、すべての大学がそれぞれの教育目標、専攻領域、対象学生、立地条件等に応じて自由に実施できるようになることが望ましいに決まっている。
 しかし、大学通信教育が「通信制」としてこれまで50年以上にわたって果たしてきた役割は正当に評価しなければならない。また、専任教員数や校地・校舎等の施設など、「通学制」に比べてスリムな設置が可能であるというメリットも忘れてはならない。「通学制」と「通信制」の区分がやがてなくなるとしても、両者の利点を融合(ベストミックス、またはブレンディング)した新たな設置形態が考えられなければならないだろう。
 大学通信教育はいま、ITと規制緩和という追い風を受けて強い日の光を浴びている。しかし、それは一時のことで、やがて高等教育全体を包む大きな波にのみ込まれてしまうかもしれない。だからこそ、いま大学通信教育について思いをめぐらすことは、これからの大学とは何か、そして大学教育とは何かを考える一つの拠り所になるのではないだろうか。高等教育の全体構想の中に大学通信教育を位置づけることで、見えなかったものが見えてくると私は思う。


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