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Between(株)進研アドが発刊する高等教育のオピニオン情報誌
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専門教育から「修養教育」への転換をめぐる論争

 高等学校が、大学予科から「高等普通教育の完成」という名の「教養教育」の場に変身した背景には、明治末から大正期にかけての学制改革をめぐる大論争がある。
 論争の中心人物は、幕末に渡英し、ケンブリッジ大学で数学を専攻、優等で卒業して帰国後、帝国大学教授・総長、文部大臣などを歴任した菊池大麓である。菊池は、帝国大学をはじめ、わが国の官立学校が、いずれも職業に直結する専門教育の場であることに、強い不満を抱いていた。高等学校自体、改正前は、大学予科のほかに専門学部を置くとされ、実際に医学部や工学部が置かれていたことを、指摘しておくべきだろう。
 ケンブリッジ大学でジェントルマン教育を受け、アメリカのリベラルアーツ・カレッジを見聞してきた菊池は、「教養教育」、当時の言葉でいえば「修養教育」論者であった。この場合の「修養」とは「人物の養成」を意味する。菊池によれば維新前、わが国の教育の目的は、学問を通しての徳育、「修養教育」にあった。儒学主体の藩校での武士の教育も、国学や心学など富裕な町人の教育も、学問を学ぶことが即、高い道徳につながると考えられていた。
 ところが維新後、藩校や私塾の伝統が廃絶し、西洋流の学校教育が入ってくると、職業教育ばかりになってしまった。欧米諸国では、宗教(キリスト教)教育が徳育の役割を果たしているが、維新後の日本にはそれもない。近代化とともに、「専門人」の育成ばかりが重視され、「教養人」の教育の場が失われてしまったと、菊池は言うのである。
 新しい「修養教育」の場が必要であり、それには高等学校を大学予科から「学芸大学校」、つまりアメリカ的なリベラルアーツ・カレッジへと、大転換させる必要があるというのが、彼の主張であった。


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