大学の理事長・学長を退任して、広い視野で大学の世界を眺められるようになり、あらためていくつかのことに気づいた。
中でも大きな発見は、企業などに比べると、大学は手厚すぎるぐらい手厚い保護を国から受けている、ということだ。いったん認可された大学は、学校教育法、私立学校法、国立大学法人法などの法律、財政支援や学生支援、その他多くの大学支援のしくみによって、よほどの事情がない限り持続可能になっている。
これらの法律や支援のしくみが整備されているのは、教育を世間の荒波から守り、人間形成や知識の修得が安定的にできるようにするためであろう。しかし、ぬるま湯も度が過ぎては、中にいる人間は腐ってくる。大学関係者は、例えば、学生にとって最も必要な学習環境を提供することに真に努力している、全国津々浦々で額に汗して働く人々よりもずっと努力している、と胸を張って言えるだろうか。「言える」と答えられる人がたくさんいることはよく知っているが、そうでない人も現実には多いのではないだろうか。
大学自治は、教育と学問を守るためだけにあるのではない。自らリスクを負って学生のため、学問のために自己変革を進める手段として、大学が享受しているものである。
1998年の大学審議会答申(いわゆる21世紀答申)、2005年の中央教育審議会答申(いわゆる将来像答申)には、大学関係者への要求と思い込んでしまいそうな文言がかなりある。大学は、こうした答申を参考にするにしても、文部科学省の圧力ではなく、自治を基礎として、未来への舵を取らなければならない。 |