VIEW21 2002.9  特集 学校改革のビジョンづくりに向けて

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高校の多様(多層)化

 生徒や保護者に選ばれる学校となるためには、「育てたい生徒(人材)像に基づく教育目標を明確にし、スクール・アイデンティティ(SI)を構築し、特色ある学校づくりの実践結果を訴求しなくては」という思いは強まっている。この思いを「学校教育計画」として具体的施策に落とし込む取り組みやその実践は、発展的な教育活動も含めて学校現場(教職員)の創意・工夫に委ねられている。
 行政は中高一貫の中等学校の創設、単位制や総合学科への再編など、これまで同質性原則によって構築されてきた教育の枠組みを越えた施策を準備している。加えて、最近では科学立国を目指すスーパー・サイエンス・ハイスクール(SSH)、英語力向上を目的としたスーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクール(SELHi)を20校前後指定した。
 これらの文教政策は、学習指導要領が最低基準を示したもので、発展的な学習は学校の実態に応じて実践できるとしたことと共に、特色ある学校づくりを誘導するものだと言えよう。
 「学校は、自らの進むべき道を見失い、どうすればよいのか分からなくなっている」と言った評論家的批判もあるが、定型教育の場として国民主義を支えてきた「学校」は、自らの創意と工夫(自己責任と自助努力)によって、「自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、より良く課題を解決する」資質や能力を持つ生徒を育てるための自己変革の渦中にある。

教育改革を動かしている「力」

 ここで、一連の改革を突き動かしている「力」とは一体何なのかを整理してみたい。
 第一は、競争を「緩和」するのか「強化」するのかというテーマである。緩和する立場は、受験に代表される競争が諸悪の根源だとする。これに対して強化する立場は、教育の世界に競争原理を導入することによって、教育活動の活性化が期待できるとする。
 次に、「普通の人」に対する教育なのか、「一部の人」に対する教育なのかという選択である。一部の人のための教育投資は、これまでタブーとされてきたが、大学の大衆化によって教育機会が充足され(これが生かされているか否かは別として)、我が国が国際競争力を強化し国際化の中で生き残るためには、「一部の人」=エリートを育成するための教育活動が必要だとする声が強くなり、今やタブーではなくなりつつある。
 最後は、教育費の負担は「政府」か「家計」かというテーマである。本来、教育にはお金と時間がかかる。
 政府が負担するということは、「見知らぬ子どものために」という所得の再配分を伴うもので、これまで国民主義を支え、社会の安定装置として機能してきたのである。
 一方、家計が負担するということは、「我が子のために」という個人主義の表明であり、国民の階層化を(結果として)容認する立場である。
 〔緩和−普通の人−政府〕という「表(たてまえ)の構造」は、これまで主として公教育が担ってきたが、それ故に同質性(画一的)教育という基軸を形成してきた。〔強化−一部の人−家計〕という「裏(ほんね)の構造」は、私学や私塾、通信教育が担い、表の構造を補強してきた。
 この表裏二重構造によって我が国の教育活動は支えられ、素晴らしい成果を上げてきた。このことは、87年の「日本教育の現状」(アメリカ合衆国、連邦教育省のレポート)が指摘している通りである(資料1)。

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