私を育てたあの時代、あの出会い

よねざわ・しゅういち

よねざわ・しゅういち

英語科。岩村田高校、木曽高校を経て長野高校へ。同校で10年間教壇に立つ。松本深志高校教頭などを経て、2006年より現職。

たかの・こう

たかの・こう

地歴・公民科。長野高校には5年間校長として勤務。その後、文化女子大学附属長野高校、長野俊英高校で校長として学校改革に取り組む。

VIEW21[高校版] 新しい進路指導のパートナー
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私を育てたあの時代、あの出会い

一匹狼たちが生徒のための集団に変わった

長野県飯山北高校校長 米澤修一

共通の目的のために、心を一つにする……。
それは、すべての集団の理想形であろう。しかし、その理想の実現は
決して容易ではない。特に、集団の構成員が高い能力、
そしてプライドを持っていれば、なおのことであろう。
では、誇り高き集団が生まれ変わる時、その長たる者はどう動いたのか。
その姿に若い教師は何を学んだのか。長野県飯山北高校校長の米澤修一先生が
熱き改革の時を振り返る。

 1984年、32歳の時に長野県長野高校に赴任しました。長野県では74年に学区が変更され、それを境に県内有数の進学校である長野高校は次第に低迷。一時期は30人以上だった東京大合格者数も一桁台に、約30%だった国公立大の現役合格率も10%台に、いずれも減少していました。
 赴任当初は「進学校の授業」を行うだけで精一杯でしたが、次第に「長野高校はこのままでよいのだろうか」と思い始めました。既に創立100周年を迎えていた伝統校は、旧制中学校らしい自由な雰囲気を受け継いでいました。教師は「勉強は生徒がするもの、進路は生徒が決めるもの」というスタンスで、教科指導や進路指導に学校としての一貫性や継続性は見られませんでした。一匹狼のような個性的な教師が個人技で指導する学校だったのです。生徒も「自分のことは自分でやるから、学校は何もしてくれなくていい」という様子に見えました。
 しかし、しばらくするうちに、もっと手厚い指導を望む生徒も多いこと、私以外にも若手を中心に現状に疑問を感じている教師がいることが分かってきました。自主性を重んじる伝統は大切にするべきだが、今の生徒に昔と同じ指導を行うだけでは通用しないのでは……。危機感は大きくなるばかりでした。しかし、ベテラン教師が多数を占める職員室で、赴任歴の浅い30代の私が学校の在り方に意見を述べるなど、当時は考えられないことでした。私にできることは担当教科でプリント教材をつくってそれを学年全体で使っていただくことくらい……。そんな小さな試みを積み重ねるうち、同校で6年が過ぎました。
 7年目に、高野幸先生が校長として赴任されました。高野校長は生徒の学力低下に対して、早急な対策を講じる必要があると訴えました。しかし、校長の提案は「伝統に反する」と、受け入れられることはありませんでした。率直に言えば、教職員は高野校長に対決姿勢を示したのです。

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