私を育てたあの時代、あの出会い

VIEW21[高校版] 新しい進路指導のパートナー
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 だから、長谷川先生から「東京大に2年生を連れて行ってくれ」と言われた時も、二つ返事で引き受けました。時は90年代半ば。高校生の大学訪問がまだ珍しい時代に、教科指導プラスαで生徒の潜在能力を引き出すという、まさにこれからの生徒に必要な進路指導を長谷川先生は見抜いていました。赤門の前で「2年後ここに通えるといいね」と話した1人の生徒は、それまで学校でもあまり目立たなかった存在でしたが、大学訪問が刺激になったのか、見事現役で東京大に合格を果たしました。志を持てば夢はかなうことを私は生徒に教えられた気がしました。こういう感動に出合えるから、教師という仕事は辞められない。それを実感する機会を長谷川先生にいただきました。
 もちろん叱られたこともあります。赴任3年目からは進路指導部に所属していたのですが、当時、進路指導部長だった長谷川先生に、12月の合否判定会議で準備した資料の不完全さを厳しく指摘されたのです。「今日は、進路指導部として不手際は許されない会議だ。そして何より、進路指導部が扱うデータは生徒そのものなのだ」。休憩時間中に叱責されながら、「たぶんこれで大丈夫」と資料をまとめ上げた自分の詰めの甘さを後悔しました。生徒はこれから受験本番を迎えるというのに、こんなことでは……出鼻をくじかれた自分を恥じながら、長谷川先生の言葉を懸命に心に刻み込みました。
 高志高校で9年目を迎えた年には、私は当時県内の高校に設置が始まった相談室の担当として、半年間筑波でカウンセラーの研修を受けるように校長に命じられました。その時、頭に浮かんだのは、職員室の片隅で生徒と話し込む長谷川先生の姿でした。いつも目にするあの情景が、私の背中を強く押してくれたのです。そして、その後、さまざまな問題を抱えた生徒、保護者と向き合うようになった時、長谷川先生の相手を安心させる悠然とした態度、冷静に課題を検討し合える資料づくりを思い出しました。
 高志高校が目指していたのは「超」進学校だったと、11年間の勤務を通じて私は理解しました。それは難関大の合格者数だけではなく、教科指導力、教養、生徒の心のケアなど、すべてにおいて教師がレベルアップを図り続ける高校です。そんな学校で「いま何をすべきか」を私は常に自問自答していました。そして、長谷川先生はさまざまなシーンで教師としての一歩先、目指すべき自分の姿を見せてくれました。私は、次々と気付きを促す触媒のような存在に巡り会えたのです。私はまた、母校に育てられました。
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