学習基本調査・国際6都市調査報告書
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 (3)ワシントンDC調査結果についての考察

 以下の全般的および具体的論点については、国際比較が非常に興味深い。まだ分析の余地が多く残されているものの、これに関する詳細なディスカッションの論点のなかには、高く評価できるものがある(政治文化や政府体制が異なる北京市との比較がどれだけ有効かは、確信が持てない。たとえば、周囲からの期待というプレッシャー、期待にはずれることはいわない傾向といった意識の違いが影響をおよぼすかもしれない)。

1.全般的論点
 一般に、公立学校の歴史からくるアメリカ人の教育観では、学校は学習ニーズのすべてに責任を負う。理由は基本的に2つある。第一は、子どもたちと親たちの大部分が、教育を必要としていた移民であった点である。教育、とりわけ英語習得は学校に頼らざるを得なかったのである。第二に、学校の時間割や年間スケジュールをみると、学校ができた当時は農業が何事にも優先される時代であったために、子どもたちが労働にかりだされ(例:多くの学校は午後2時に終わる)、収穫作業にも従事していた(それゆえ、アメリカの小さな町では夏休みが長い)ことがわかる。このように学校は、小さな町や郡の所有物であって、その結果、具体例でいえば、高校のフットボールチームを重んじ、誇りとするような風土が培われた。学校は地元地域のものなのである。学校の管理統治に連邦政府はかかわっていない(ただし、現在この点を論争中である)。全米52州には、選挙で選ばれた1万5,000の学校評議会(school boards)がある。このうちの半分は、児童・生徒数が3,500人以下である。アメリカ文化では、学校は地元地域の事業、社会的構成単位、競争なしに教育の機会均等を保障する場といえる。地方の政治課題のほとんどは学校教育問題で占められている。
  それゆえ、学校は学びに責任を負っていると地域社会からみなされている。地域社会がカリキュラムに異論を唱える場合もある。学校は性教育(家庭教育:Family Life Educationと呼ぶ)もすべきだと考えている親は多いが、それは家庭の問題だと厳しく主張する少数派もいる。カリキュラム議論を具体的にいうと、同性愛、エイズ、避妊法などをカリキュラムに入れるべきか否かなどである。これについては多数派の意見が優勢である。ギャラップ調査や他の世論調査でも、常時70%を占める。学校はそれほど中核的な地位にあるため、学校がなすべきことに関し、長期にわたる論争が必ず生じる。これはアメリカ合衆国が民主主義社会だからでもある。

  アメリカ文化で学校が中核的地位にあることから、地域社会は、学問的カリキュラム以外にも学校を頼りにしていることは明白である。教師は校内に限らず地域社会で模範とならなければならなかった(ヴァージニア州オレンジ郡では、公共の場で堂々とお酒を飲む教師などみたことがなかった)。結果的に(学習塾のような)競争的または支援的な態勢が育つこともなく、必要ともされなかった。このような特別なサポートは公の予算で行うべきだというのが市民の信条でもある。
  しかしながら、学校は子どもたちに十分なスポーツカリキュラムを提供しておらず、単に小学校レベルで体育の授業をしているだけである。そのため熱心なスタッフやコーチをしているボランティア団体のリトルリーグが野球チームを作っている。また、あらゆる種類の格闘技を教えている民間の教場は多数ある。さらに、地域にあるプールにはほとんど水泳チームがあり、充実している。最近ではゴルフがスポーツトレーニングになるとして、ゴルフに人気がある。親たちがスポンサーとなって費用をまかなっているが、タイガー・ウッズの影響で、First Teeのような100万人の子どもたちがゴルフを知るようになったと喧伝する国立の団体がたくさんできた。サッカーについては「サッカーママ(soccer mums)」(子どもがサッカーをしていて、試合の送り迎えをする母親のこと)という流行語を生むほどで、小学校に通う年頃の子どもたちが作る混成チームではサッカーに取り組むチームが多い。
  アメリカ人は、その多様性のゆえに、スポーツの機会均等を尊んでいる。だから、アジアの社会には「学習塾」があるが、アメリカ合衆国には「スポーツ塾」があるという人がいてもおかしくないだろう。

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