学習基本調査・国際6都市調査報告書
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(2)脱受験競争時代の東京の子ども
 ソウル、北京、ヘルシンキ、ロンドン、ワシントンDCの子どもたちを比較の鏡としたとき、東京の子どもたちのどんな特徴がみえてくるのだろうか。詳細は、本文の各章に譲るとして、私が感じた衝撃を述べておきたい。
  東京の子どもたちの学習時間は欧米3都市よりも長いけれど、ソウル、北京と比べるとはるかに短い。学校の宿題に費やす時間は6都市中最短である。教育界は長い間詰め込み教育の是正に全精力を傾けてきた。私たちがこの調査の設計に着手した1990年ごろ、受験競争の弊害が叫ばれ、詰め込み教育が問題視されていた。子どもたちの問題が出てくると、試験地獄の中で子どもたちが悲鳴をあげているのだと解釈されていた。教育界は“ゆとり教育”を待望していた。しかるにいまや、隔世の感がある。世界の子どもたちに照らしてみれば、過度の競争の中で勉強に明け暮れる日本の子どもや、詰め込み教育を強いる学校の姿はもはやみあたらない。
  一言でいえば、脱受験競争時代の子どもたちの姿が、国際比較という鏡に映し出された。少子化や、高学歴化にともなう学歴価値の低下の助けを借りてではあるが、日本の教育政策は、宿願だった試験地獄と詰め込み教育からの子どもたちの解放に、ひとまずは成功したようにみえる。
  同時に、東京の子どもたちの学習行動には、格差社会の影がしっかりと刻まれていることにも注意しておかねばならない。学習時間の分布をみると、東京の子どもの学習時間の散らばりが大きく、二極分化的特徴がみえる。北京にも若干分化傾向がみえるが、欧米3都市にはみられない特徴といってよい。
  局所化する受験競争。すでに報告した時系列比較の結果からも、高校ではトップランクの高校生の、また小・中学校では成績上位層の学習時間の回復が著しかった。学習時間の分化は、競争が局所化し、一部の青少年が強い受験プレッシャーの中で学習へと動機づけられている状況を物語っているように思う。脱受験競争時代は、すべての子どもたちが競争から解放された時代ではない。競争するものと競争しないものの分化が鋭さを増す時代でもある。この結果は、いわゆる教育格差の拡大や格差社会をめぐる議論と無関係ではない。
  いまひとつ、富や地位を手に入れるうえで勉強が役立たないと考える東京の子どもたちの特徴も浮かびあがった。「会社や役所に入ってえらくなる(出世する)ために」勉強が「とても役に立つ」と答えた子どもは、東京で約30%。ソウルの約60%、ワシントンDCの約68%とは格段の開きがある。「心にゆとりがある幸せな生活をするために」勉強が役立つと答えた子どもも、東京だけが例外的に少ない。高学歴志向がもっとも弱いのも、東京の子どもたちである。
  これまで日本の子どもたちの学習や学歴についての効用認識が弱くなっているのは、高学歴化によって学歴の客観的価値が低下したからだ、あるいは豊かな社会になったがゆえに人々がもはや学歴競争に動機づけられる必然性が弱くなったからだと説明されてきた。学習や学歴の効用認識の低下を通じて子どもたちの学習への動機づけが困難になるのは、先進国に共通のことであって、豊かな社会になったことの証だと考えられてきた。ポストモダンの時代に、もはや学びのすすめや“立身出世”は通用しない、だから子どもたちをいかに動機づけるかが先進国の課題だとされた。ところが今回のデータは、英米の子どものほうが、東京の子どもたちよりもはるかに学習と学歴の価値を認めており、地位達成アスピレーションが強いことを示している。とすれば、“豊かな社会”仮説は誤りであって、日本社会に固有の問題としてあらためて説明すべき対象になる。
  日本の子どものアスピレーションの低下や学習、学歴の効用認識の低さは、おとな社会の学歴価値誹謗言説が、実体験を持たない子どもの世界観に反映した結果としてみたほうがよいのではないか。おとなの価値観が子どもの社会認識を通じて露わになったものと考えれば、問題視されるべきなのは意欲を持たない子どもたちではなく、私たちおとな社会の有り様そのものにほかならない。
  日本の子どもたちがみせるこの“独自性”は衝撃といってよい。私たちは学びの何を否定し、どこを目指してきたのだろう。
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