「データで考える子どもの世界」

教育格差の発生・解消に関する調査研究報告書

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分析編/第6章 学力調査の思想史的文脈

4.学力の脱構築:できることと考えること

2節の冒頭でも述べたように、学校での学力の形成を支えている原理は、メリトクラシーである。このことを否定することはできない。だが、既存の学力という概念を組み替えるためには、このような学力をメリトクラティックな基準、つまりできること、有能であることの基準からのみとらえる見方を、いったんは相対化する必要があるのではないか。

近代の能力主義(メリトクラシー)は、潜勢力(可能性)を、現勢力(現実)に転化するものとしてとらえてきた。たとえばテストによる達成(現勢力、現実)によって、学力(潜勢力、可能性)をはかる、というように。しかし、たとえば哲学者のジョルジョ・アガンベンは、このような、現勢力(現実)のしるしのもとにおいて潜勢力(可能性)をはかろうとする態度を批判する。アガンベンによれば、「現勢力(現実)にある存在とはまったく関係をもたない潜勢力(可能性)」を考えなければならないのであり、また、「潜勢力(可能性)の完成と表明としての現勢力(現実)ではないような現勢力(現実)」を思考しなければならないという(Agamben 1998=2003)。

つまりここでは、現勢力(現実)のしるしのもとにおいて潜勢力(可能性)をはかるのではなく、潜勢力(可能性)は「それ自身の資格において」考察されなければならないとされる(岡田2002)。いいかえれば、現勢力(現実)のしるしのもとにおいて潜勢力(可能性)をはかろうとする態度から、両者(現勢力、潜勢力)をそれ自身の資格においてとらえる態度への転換が示唆されているといえる。

とはいえ、両者(現勢力、潜勢力)をそれ自身の資格においてとらえるとは、私たちの日常において、あるいは学校教育の現場において、具体的にどのようにイメージできるのだろうか。

この点を考える上で示唆に富むのは、アガンベンの思想に早くから注目してきた田崎英明の分析である。田崎は、現勢力(エネルゲイア)と潜勢力(デュナミス)を論じた論稿で、ハンナ・アレントによる政治と社会の区別を援用して、「無能な者たちの共同体」としての「政治」と、「有能な者たちの共同体」としての社会を区別してとらえる。田崎によれば、まず「政治とは、無能な者たちの共同体」であり、「デュナミスを欠き、ただエネルゲイアだけの共同体」であり、「政治のうちには眠る場所はない」という。これに対して、「社会」とは、「有能な者たちの共同体」であり、「デュナミスにつきまとわれた者たちが住む場所」であり、「眠る者たちの共同体」であるという(田崎2007)。

有能な者たちの共同体である社会がなぜ、「眠る者たちの共同体」なのだろうか。それは、たとえば有能な職人は活動しているときだけではなく寝ているときでさえも職人であり、「寝ているときでさえ、一切の活動をしていないときでさえ、その身体に身元=同一性identityを割り振る装置として、社会は機能する」からである(田崎2007)。寝ているときでさえ職人であるというのは、現勢力(起きて活動している職人)と潜勢力(寝ている職人)を等置する有り様の典型である。

メリトクラティックな学力観は、「有能な者たちの共同体」としての社会と強く結びついている。これに対して、「無能な者たちの共同体」としての政治と強く結びついた教育というものを考えることができないだろうか。この点についても、上述の田崎の論稿は示唆を与える。

田崎は、できること(習熟)と考えることを区別する。前者のできることは、たとえば「ある道具について知り、それに習熟すること」であり、「特定の専門家の独占的な知識たりうる」という。たとえば、「すべての人が大工のように鉋を使えるわけではないし、また、すべての人が医者のように病気やその治療法について知っているわけではない」ということからもわかるように、知識と習熟は、社会の中に均等に分散されているわけではなく、特定の専門家によって独占することが可能なものである。これに対して、後者の考えることは、できない人間、無能な人間にも可能な、「誰にでも備わっている能力である」(田崎2007)。

この、できることと考えることの区別をふまえれば、「有能な者たち」のための教育は、特定の専門家による独占へと閉ざされている教育である。そこでは、知ることと習熟すること、知ることとできることを結びつけようとする。これに対して、「無能な者たち」のための教育は、誰にでも開かれている教育である。そこでは、知ることと考えることを結びつけ、それによって知の独占性を開放しようとする。たとえば、医者にならなくても医療問題を考えること、大工にならなくても建築問題を考えること、プロのサッカー選手にならなくてもサッカーについて考え批評すること、そして官僚にならなくても行政について考え批評すること。つまり、職業と結びついた専門的知識や技能を、市民化された批評的知識へと組み替えていくこと。ここに、メリトクラティックな学力観を組み替えていく一つの方向性があるのではないだろうか。

もちろんこのことは、メリトクラティックな学力観の否定を意味しない。むしろ、メリトクラティックな学力観が抑圧に転化しないためにこそ、そしてまた、逆にメリトクラティックな学力を「平等」の名のもとに抑圧しないためにも、メリトクラティックな学力と市民化されたカリキュラムのそれぞれに固有の位相を見極め、両者の区別と共存の可能性を追求していくことが不可欠なのである。

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