ベネッセ教育総合研究所
特集 教室を超えて生きる国語力
藤原正彦
藤原正彦(お茶の水女子大・理学部教授)

ふじわら・まさひこ●1943年に作家・新田次郎氏と藤原てい氏の次男として生まれる。東京大理学部数学科卒業。同大学にて博士号取得。専門は数論。早くから国語教育の重要性を訴えている。著書に『祖国とは国語』(講談社)など。『若き数学者のアメリカ』(新潮社)で日本エッセイストクラブ賞を受賞。2004年2月まで文部科学省文化審議会委員を務めた。
PAGE 13/15 前ページ次ページ
インタビュー
「読み」から育つ国語力が日本を支える
 国語力は、学校での学びという限定された行為にのみ必要なものではなく、社会を構成していく私たち一人ひとりに不可欠な能力ととらえることができる。 数学者でありながら国語力育成の重要性を訴え続けている藤原正彦氏に、現代に生きる者として、子どもの「生きる力」としての国語力の育成にどう取り組むべきかを聞いた。

問題は語彙力の乏しさ
 私は電車に乗ったとき、近くにいる中・高生の会話に耳を傾けることがあります。そしてそのたびに、子どもたちの「国語力」の低下を痛感し、日本の未来に暗い思いを抱いてしまいます。
 「チョーうざい」「サイテー」などといった、いわゆる「言葉の乱れ」が問題の核心なのではありません。そうした言葉は、いつか時代とともに廃れていくものです。私自身も、若い頃は「腹が立つ」ことを「トサカにくる」「ドタマにくる」「しゃれこうべにくる」などと、ちょっと乱暴な言葉で表現したものですが、今はそうした言葉を使う人はいません。同じように、今の若者たちが使っている乱れた言葉もいつの日か消えてなくなるでしょう。そもそも、言葉が乱れたからといって日本が滅びるわけではありません。
 私が暗澹たる気持ちになるのは、もっと別の理由です。それは語彙力の低下です。車中の子どもたちの会話にさらに耳を傾けると、じつに少ない言葉しか出てきません。おそらく、100語か200語くらいではないでしょうか。
 言葉は、単なるコミュニケーションの手段ではありません。私たちは、何かを考えるとき、頭の中で必ず言葉を使います。語彙が豊かであれば、思考も豊かになるでしょう。語彙が貧しければ、思考も貧困なままです。「言葉」はほとんど「思考」に等しいのです。100か200の語彙しか持っていない人は、それに見合った思考しかできないのです。
 例えば、「好き」という感情一つとっても、それを表す言葉が日本語には実にたくさんあります。「片思い」「胸を焦がす」「密かに慕う」「一目惚れ」、それから「横恋慕」など。そうした言葉を知っていてこそ、恋愛における感情のひだは深くなります。語彙力が乏しく、「好き」という言葉しか知らなければ、「好き」という感情も薄っぺらなままです。これでは情緒が育つはずもありません。
 だから私は憂うのです。このままでは、日本中が思考力も情緒も乏しい者たちであふれてしまうのではないかと。
写真
PAGE 13/15 前ページ次ページ
トップへもどる
目次へもどる
 このウェブページに掲載のイラスト・写真・音声・その他のコンテンツは無断転載を禁じます。
 
© Benesse Holdings, Inc. 2014 All rights reserved.

Benesse