ベネッセ教育総合研究所
特集 教室を超えて生きる国語力
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「読み」を重んじた寺子屋の学びに
 現在の国語教育は、「読む」「書く」「話す」「聞く」の四つが柱とされています。一見、当然なことと思えるかもしれません。しかし、私はこれは間違いだと考えています。この四つは、等しく並べるべきものではありません。四つの中で何より大切なのは「読む」なのです。比率でいえば、「読む」が20、「書く」が5。「話す」と「聞く」はそれぞれ1です。
 これは決して私の独創的な意見ではありません。江戸時代の寺子屋を思い起こしてください。当時、大切にされたのは「読み・書き・そろばん」の三つ。「話す」も「聞く」も出てきません。なぜなら、「話す」「聞く」は学校ではなく、日常の家庭でこそ養うべきものだったからです。そして、「読み・書き・そろばん」という順が示すように、最も大切にされたのは「読み」だったのです。
 語彙力は、自分の目で活字を追いながら「読む」行為によってこそ身につきます。ですから、学校の国語は、本来、「読む」を中心とすべきものなのです。
 読書の効果には、語彙を獲得することのほかに、教養を身につけられるということがあります。文学、芸術、歴史など、教養のほとんどは、読書によって身につくものなのです。教養の多くは、実社会を生きるうえでは直接的には役に立たないものかもしれません。教養がなくても、日々を大過なく過ごすことはできるでしょう。しかし、それが本当に豊かで、幸せな人生といえるでしょうか。
「国語」こそ社会に役立つ論理性を養う
 私は数学者ですが、国語力の必要性を20年も前から訴え続けてきました。それは、国語がすべての教科の、ひいてはすべての知的活動の中心だからです。
 帰国生が日本の学校に通うようになったときにいちばんつまずきやすい教科は算数・数学です。しかし、それは算数・数学の力がないからではありません。文章問題を読んでも何を問われているかがわからないからです。算数・数学の文章問題には必要最低限のことしか書いてありません。わからない言葉が1語あっただけで、題意が読み取れなくなります。だからこそ、国語力が重要になってくるのです。
 数学は論理的な学問と言われますが、その論理性は実に単純で、白か黒か、つまり正か誤かの2種類しかありません。しかし、現実の社会の事象はうまく割り切れるものではなく、さまざまな濃淡の灰色に染められています。そこでは、数学的な白か黒かの論理は役に立ちません。灰色の濃淡を見分ける論理性は、国語を通じて養うしかないのです。
 論理性を養うには、「書く」ことも欠かせません。とりわけ、自分の意見を主張する文章を書くことが大切です。主張することを通じて、論理的に、説得力をもった文章を組み立てる言語技術が養われるからです。その点では、論理的に主張し、相手の意見のポイントをとらえ、反論するディベートなどの表出学習も有効でしょう。「話す」「聞く」の比率が0ではなく1なのはこのためです。
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