高大接続論をリードしてきた荒井克弘を中心とする研究グループが強調してきたのは、まさに選抜から教育へという転換であった(荒井・橋本編2005)。私たちは高大接続を論ずるにあたり、入試制度だけを議論するのではなく高校教育から大学教育への移行の過程全体にわたって目配りしながら制度設計をする必要がある。その点では12月の中教審答申は正攻法の議論をしていると評価してよい。
しかし、全体としてみたときには、入試改革が目玉となっており、そこではまさに高校教育との整合性が大きな問題となる。特に、日本のように、カリキュラムが全国統一されていて、しかも高校から大学へは時間的隙間もなく繋げられており、そのうえ高校も大学もほぼトコロテン式に進級するシステムをとっている場合には、高大接続改革は即、高校教育現場に想像以上に大きな影響を与えると明確にイメージしておいたほうがよい。アメリカのように、州によって義務教育年限が違い、また編入や退学が日常的にあり、大学進学後も専攻を変えることが容易なシステムでの、ある意味自由度が高くてゆるやかな高大接続とは状況がまったく違うのである。
重要なことは、イメージに惑わされずに高大接続の現実をつぶさに観察し、本当に必要なところに人と予算を淡々と付けるということであり、派手な改革はいらない。そうした判断にこそ知識や技能が「活用」され「探究」の力が発揮されねばならないのであるが、はたして現実はどうか。「知識の暗記・再生」をネガティブにとらえる答申自身が、私には「知識偏重」という型にはまった知識をうのみにして再生しているだけの悪しきお手本のように見えてしまう、といっては少々口が過ぎるだろうか。
いずれにせよ、少なくとも高校・大学の現場の意見はできるだけ積極的に取り込んで有意義な改革をすすめてほしいものである。
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