冒頭で述べたように、大学入学者選抜制度の改革は、いつも「未完の教育改革」である。その改革が、生徒にとってハイステイクスであるが故に、議論も毎回熱く盛り上がる。但し、何の改革であっても同じであるが、改革の前提として、ある種の合理性が必要であろう。つまり、改革の必要性があるのであれば、合理的な理由があるのであれば、例えどんなに労苦を払ってでもやる価値がある。逆に、様々な制度の導入に必然性や合理性がなければ、十分にその意義を世間に説明できなければ、導入するべきではないことは言うまでもないであろう。何故、二つの達成度テストは必要なのか、何故、CBTや適応型テストは必要なのか、何故、複数回受験は必要なのか、その導入目的の合理的な説明が求められてくる。本稿でとりあげた論点も含めて、以後、専門家会議で大いに議論され、導入の意義が明確化されることが望ましいであろう。
また、繰り返し述べてきたように、大学入学者選抜制度の設計は、素人判断だけでは非常に難しい。それは、上記で述べてきたように、測定道具としての「テスト」の知識と、その制度設計がもたらす社会的影響の部分も踏まえて、大いに専門知識が必要とされるからである。ただ、そうした「テストの専門家」による判断のみで制度としての妥当性を担保し得ないのが、ハイステイクスな大学入学者選抜制度改革の特徴でもある。その提案は、世論が満足するものでなければならないが、世論の雰囲気に押し出された改革案を丸呑みにしては、大学入学者選抜制度の破綻は目に見えている。
一方、アンケート結果から透けて見えてきたように、現状変更に対する忌避観は根強い。高校現場としては、できないものはできない、というのを本音として、しっかり受け止めるべきであろう。実際に、現在提案されている制度改革案が、高校現場に降りてきたとき、現場の支持が得られない制度は、いくら上意下達であったとしても、うまくいかなくなるものであろうし、歴史的な経緯を無視したものは、その歴史的必然性の意味から成り立ちにくいものとなるであろう。現在、オンゴーイングで議論されているところなので、その結末まで予測することはできないが、こうした制度改革の是非は、現状の世論の中においてではなく、必ず、後に歴史の審判を受けることを忘れてはならない。センター試験と個別学力検査の例でも見たように、我が国における大学入学者選抜制度のいずれもが、日本における大学入学者選抜制度の長い歴史のもとに築かれ、醸成されてきたものであって、それぞれに合理的な必然性が存在する。新たな制度改革の導入が、それらの合理的な必然性を尊重しながら、それらとの齟齬を埋めることができなければ、今回の制度改革は困難を極めることに違いないし、逆に言えば、その齟齬がない形でうまく新制度の導入がされるとするならば、「未完の教育改革」がようやく「完遂」されるのかもしれない。
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