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対談:安西祐一郎氏に聞く「日本の教育課題と展望2013」全3回連載

【第3回】ICTによる学びの変革とグローバル社会に必要な教育 [3/4]

新井  ドイツがモデルになったのだと思いますが、日本でも各地域で、総合型スポーツクラブが運営されています。しかし、コミュニティになっていかないので、子どもの居場所にもなっていきません。それと、従来型の体育館なので大人が飲んだり食べたりする場所もありませんから、地域の人たちも集まって来ません。

安西  ドイツのコミュニティのような社会資本の整備は、コミュニティと学びを核とした地域社会活性化の良い事例です。しかし、単なるハードウェアのインフラではなく地域ごとの文化や歴史を人々が共有し、蓄積してきたソフト的な要因が大きい。地域に根差した文化は国によって違いますから、ハードウェアだけを整備しても機能しません。そこにはまず地域が自ら立ち上がるための人材が必要で、そういう人材の育成こそ私がお話ししているような、主体性を育む教育の方法論のもとに生まれるのだと思います。

 会議で原稿を棒読みしない

編集部  全体をお聞きして、時間と共に硬直してきた日本社会の構造を考えると、やはりまず高等教育が変わらないと社会全体が変わらない印象を持ちました。さらに日本はグローバル社会への適合という課題もあります。印象的だったのは、先生が国際会議の厳しい局面で議事運営をされた時、必要だったのは語学力だけではなかったのではないかということ。その場を切り抜けられたのは、先生の経験の中で培われたどのような力があったのでしょうか。

安西  よい質問です。大事なことは語学力だけではありません。想像力、人の心の痛みがわかる力、臨機応変力、並行処理力を持っていることがとても大切です。

国際会議に限らず日本語による会議でも同じことですが、たとえば自分が話している時に、視界の端に首をかしげている人がいる。すかさず、そういう人に「あなたはどう思いますか?」と言えなければいけません。そうでないとあとに尾を引きます。それができるためには、国内外を問わず、誰が心の中で何に引っかかっているかを感じる経験を積み、感受性を養うことでしょう。

また、臨機応変力について言えば、「会議で原稿を棒読みしない」ということが大事ですね。一字一句正確を期さなければならないような特別の場では別ですが、特に日本人の場合は国際的な場で、誰かが作った文章を紙に目を落としたまま淡々と読む方も多いように思います。しかし、そういう場では自分の考えていることを、自分の表現で、しかも英語で話さなければなりません。そうでないと一期一会の場で本当には人を説得できない。それには、まず英語以前に、自分が何を考え、どのように伝えたいのかを心の中ではっきりさせることですね。それを一貫して持っていれば、場面が変わったとしてもコミュニケーションを取ることができます。必要なのは、最初に申し上げた「知情意」の総合的な力です。

新井

聞き手  新井 健一

ベネッセ教育総合研究所 理事長
あらい・けんいち ● 平成16年執行役員、教育研究開発本部長及び教育研究開発センター(現 ベネッセ教育総合研究所)長を兼務。平成19年1月NPO教育テスト研究センター設立。同理事長に就任し、OECD等海外の機関とネットワークを構築。現在、中央教育審議会初等中等教育分科会「学校段階間の連携・接続等に関する作業部会」委員。総務省事業「青少年のインターネット・リテラシー指標に関する有識者検討会」座長代理などを歴任。

新井  グローバル社会で言う語学力とは、ただことばを使えればよいという話ではなく、利害の対立も処理しないといけないし、異質なものを調整しなければいけない。

安西  場面とか文脈にもよるのですが、英語にそれほど慣れていない日本の方でも人格や経験や知識、業績など根底に自信があれば、堂々としている方はたくさんおられます。そういう人には世界の誰もが惹きつけられます。そういう人はグローバルな場でのリーダーとして相応しいと思います。やはり総合力であって、語学ができればグローバルかというとまったくそんなことはない。要は、そういう根本的な力を幼小中高大の間にどうやって身につけられるか、ということではないでしょうか。

 開かれた教育現場を目指して

編集部  これからは先生の意識を変えていくうえで、場や環境を用意し設定すること自体が大事だという話がありました。と同時に、カリキュラム、教材をどう作っていけばよいのかをセットで議論する必要があるように思えます。その点についてのお考えをうかがえますか。

安西  それはおっしゃる通りです。むしろ、今のところは教材の方が十分整備されていないことが問題だと思います。すでに世の中にあるいろいろなデジタルデータを使って多様な教育ができるはずですが、そういうことは教育だと思われないという伝統があるように思います。その伝統を超えて新しい場と新しい教材を作ること、と同時に世界中にあるデータをどのように使うかが重要です。公表されている莫大なデータにどうアクセスしてどう読むかですね。

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