シリーズ 未来の学校

過疎からの脱却、地域を復興に導いた教育改革

【前編】 生徒の夢と地域の将来を見つめた、隠岐島前高校の人間育成 [2/4]

 高校の存続は地域の存続と直結

従前の島前地域では、中学校を卒業すると同時に約半数の生徒が島を離れ、本土の高校へ進学していった。特に経済的にゆとりがあり、大学進学が可能な家庭の子どもほどその傾向は顕著だ。こうした島外の高校への進学と少子化が進むことで、1997年には77人いた隠岐島前高校の入学者数が、2008年には半分以下の28人に激減。生徒数が減ったことで教員の数も減り、教員は専門以外の科目も教えなければならず多忙を極めた。物理を教えられる教員がいなくなり、生徒は理系に進学することが難しい状況に陥っていた。また、図書館の司書もおらず、図書館は閉鎖されたまま。隠岐島前高校は統廃合の危機に直面していた。

隠岐島前高校を失うことは、島前3町村にとって測り知れない損失である。なぜならば、島の子どもたちは中学卒業とともに島を離れなければならなくなり、島から15~18歳の若者がいなくなるからだ。これに加えて、島外の高校に進学するとなると、子ども1人につき3年間で約450万円の負担になると言われている。経済的なゆとりのない家庭や子どもの多い家庭では、子どもだけでなく家族全員が島を離れなければならなくなる。

「隠岐島前高校がなくなれば、子どもを持つ家族の島へのUターンはますます減少し、教育費の負担増により出生率も低下するという“負のスパイラル”に陥るだろう」と、海士町役場財政課長の吉元操氏は警鐘を鳴らす。

子どもの通う学校が無いということは、新たな雇用創出や子育て支援策の充実によって若いUIターン者を増やし、持続可能な町づくりを進めるという島の生き残りをかけた挑戦も意味をなさなくなる。高校の存続は地域の存続と直結する問題なのだ。

こうした状況のなか、2010年に「島前高校魅力化プロジェクト」が始まった。このプロジェクトの推進役を務めたのが、Iターンで海士町に移り住んできた岩本悠氏である。

 キーマンとなるIターン者が島に移住した

1979年生まれで東京都出身の岩本悠氏は、大学時代にアジアとアフリカの国々で開発活動を経験。この経験をまとめた書籍『流学日記?20の国を流れたハタチの学生?』は実に4万部以上を売り上げ、岩本氏はさらにはその印税でアフガニスタンに学校を建設した。大学卒業後に就職したソニーでは、人材育成や組織開発を担当し、その傍ら全国の学校でキャリア教育に取り組んできた“人間力”のある人物だ。

海士町が進める「人間力推進プロジェクト」の出前授業の講師として2006年5月、初めて島を訪問。講演後の打ち上げで町職員らと島の課題をどう解決したらいいのかについて話し合っているうちに、「ぜひ島に移住してわれわれの力になってほしい」と請われる。彼は自らの意志とこのような海士町の人たちの熱意に押され移住を決めた。

 魅力化の核は地域人材の育成

「島前高校魅力化プロジェクト」がスタートする以前、隠岐島前高校の卒業生の95%以上は進学や就職で本土へ出て行き、そのうち島へ帰ってくる人の割合は3割に過ぎなかった。

島を出た人に「地元に帰らない理由」を尋ねると、その多くが「帰りたくても島前には仕事がない」「働く場所がない」と答える。だが、農業や漁業といった一次産業は衰退し、国や県からの公共事業も減少しているなか、仕事や働く場所を誰かが用意してくれるのを待っていたら、その前に地域自体がなくなってしまう。

「島前高校魅力化プロジェクトでは、島前には仕事がないから帰れないという従来の意識を変え、『自分の町を元気にする新しい仕事をつくりに島に帰る』という地域起業家的な精神を持った若者の育成を目標の1つとした」と、岩本氏は話している。

当時、中学校までは地域と連携した「ふるさと教育」が行われていたが、肝心な進路を決める高校段階では地域と関わる教育はほとんど行われていなかった。そこで隠岐島前高校では、地域に根ざしたキャリア教育を展開していく。「生徒たちが実際の町づくりや商品開発などを行い、地域社会で活躍するための総合的な人間力をつ付けるカリキュラムを創設した」(岩本氏)。

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