教育フォーサイト

対談:為末大氏に聞く「スポーツと教育の未来」全2回連載

いま日本が目指す教育とは何か
急速にグローバル化が進む社会で求められる人材像とは
子どもの学びはどのように変わっていくのか、教師はどうあるべきか
これからの教育を各界の第一人者に聞く「教育フォーサイト」。

第二弾は「男子400メートルハードル」種目で、世界陸上の2大会において銅メダルを獲得する偉業を達成した為末大氏がゲスト。為末氏は現在、コメンテーターとしてテレビに出演する一方、指導者としても全国各地で陸上イベントを企画するなど、陸上競技の普及に取り組んでいる。

聞き手 : ベネッセ教育総合研究所理事長・新井健一

【後編】社会に求められるスポーツの役割 [1/4]

 なぜ、スポーツが子どもの成長に役立つのか

新井 前編はトップアスリートならではの視点をお話しいただきました。後編ではスポーツと教育の関係についてお聞かせください。教育とは、能力や資質を育成することだと思いますが、スポーツが担う役割は何だとお考えですか?

為末 僕にとってスポーツをやってきて一番よかった点は、「ここまでは3ヶ月で何とかなりそうだ、ここまではちょっとムリかな」という目標設定のセンスが身についたことです。例えば走り幅跳びの場合、「1ヶ月でこの幅を飛べるようになりたい」と練習をする際、飛んだ距離の推移を一定期間内で比べる機会を数多くもちます。そういう振り返りを繰り返すと、自分の身体的な成長を予想したうえで、実際にアウトプットされる記録をある程度予測できるようになり、目標設定のセンスがよくなるように感じます。子どものときにスポーツの目標を他人が設定してしまうと、子ども自身が考えず、「そこに目標がある」というだけで練習してしまいます。だからこそ、自分で目標設定して、それをクリアして、自分で決めたことを自分でやりきったという自信を得ながら進む方がいいと思います。

新井 一方で学校教育でスポーツが重要なのはどういう点でしょうか?

為末 大氏

為末 大

ためすえ だい ●2001年エドモントン世界選手権において、400メートルハードル種目で日本人初のメダリストとなる。また、2005年ヘルシンキ世界選手権でも銅メダルを獲得。引退後は、2010年、アスリートの社会的自立を支援する「一般社団法人アスリート・ソサエティ」を設立、代表理事を務める。さらに、2011年、地元広島でランニングクラブ「CHASKI(チャスキ)」を立ち上げ、子どもたちに運動と学習能力をアップする陸上教室を開催。また、東日本大震災発生直後、自身の公式サイトを通じて「TEAM JAPAN」を立ち上げ、競技の枠を超えた多くのアスリートに参加を呼びかけるなど、幅広く活動している。著書に「日本人の足を速くする」(新潮社) 、「走る哲学」 (扶桑社新書) 、「走りながら考える」 (ダイヤモンド社)、 「負けを生かす技術」(朝日新聞出版)、「諦める力」 (プレジデント社) ほか多数。

為末 スポーツをやって「敗北」と「不条理」を知ることは大切です。例えば100メートル競走の場合、ほとんどの人がどれだけ練習してもウサイン・ボルトには勝てません。社会とはそういう不条理な面もあります。その中で、「自分が活躍できるフィールドは何だろうか」と考えていくのにスポーツ体験は役立ちます。それから「挫折経験」ですね。僕は中学校ぐらいまでは努力と成果は取引のような関係だと思っていました。つまり、練習すればするほど結果が出るものだと。ところが、高校生になるとそうではなく、初めて挫折を味わいました。100メートル競走で勝てなくなったときに、「誰よりも練習したからといって、勝てるわけではない」と初めて理解しました。逆に、「努力する場所を考えることも努力のひとつだ」という思考を、そのときに学びました。こういう体験をするには、競争の激しい場所、勝負がはっきりつく場面に身を置くことしかないと思うので、それにはスポーツが適している気がします。子どもがスポーツをやる大きな効果のひとつは、この挫折経験から学ぶことが挙げられます。

 挫折から方向転換できる教育を

新井 ご著書「諦める力」を読んで思ったのは、我々は「夢を諦めて別のよりよい選択肢を選ぶこと」を教わっていない気がします。学校教育では進路指導、大学ではキャリア育成があり、「将来を見据えてこうしなさい」「目標に向かって頑張りなさい」と教えます。

為末 最初に決めた夢を追い続ければ叶うかもしれないですが、叶わないかもしれません。夢を追い続けるか、それとも別の道に進むのか、自分で選ばなければいけないです。僕は、例えば「人を喜ばせたい」という志があるなら、そこに至るためにはたとえばサービス業や接客業でなくてもいいのではないか、という考えです。職業を通じて物事を見ていくことも大切ですが、職業の種類の先にあるもっと高次の目的を考えることがなくなると、その職業に固執することになってしまうのではないでしょうか。このようなことを体感的にわかっていくには、さまざまな選択を自分で経験してその結果を自分で受け止める、そのような行為の連続でしかないような気がします。

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