学習基本調査・国際6都市調査報告書
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 (2)日本とアメリカ合衆国の学校文化差

 日本とアメリカ合衆国では大きな文化の差があり、当初は日本で行った調査をただ英語に翻訳して行うのは非常に難しいと考えていた。しかし、この調査研究を進めるにつれ、文化差に関するそのような問題意識は薄れていった。日本語調査票の直訳をアメリカ合衆国の文脈にあてはめて変更したのは主に以下のとおりである。

1.教科の好き嫌いに関する質問では、とくに教科の項目をアメリカ合衆国の学校に即したものにした。たとえば、「生活教育・健康教育」を入れ、「コンピューター・IT」について記述し、「美術」と「音楽」を入れた。その他、習い事の質問に対する選択肢にはアメリカ合衆国の子どもが関心を示しているものを反映するよう、スポーツに関する項目を増やすなど、範囲を拡大した。アメリカ合衆国では「黒板(ブラックボード)」とはいわない。ふつうチョークボードと呼んでいる。フェルトペン用のホワイトボードという言葉も学校で用いている(ただし、アメリカ合衆国のソフトウェア会社が「ブラックボード」と名づけた、授業用双方向性ウェブ学習システムが学校にある)。

2.教育学的コンテクスト上の文化差が、授業中のおしゃべりに関する質問(「近くの人とおしゃべりをする」)に反映されている。この質問は、日本やおそらくその他のアジア諸都市における、授業中のおしゃべりは好ましくないものであるといった規律上の問題なのだろう。しかし、グループ学習やクラスメイトから学ぶことはアメリカ合衆国ではごく普通のことであり、その結果として授業中に話をする子どもも多い。また、学習塾についての質問を設けたが、学習塾の概念や存在自体がアメリカ合衆国ではほとんど知られていない。個々の公立学校では、学校施設を使って、補習が必要な子や、逆に才能のある子に対する補完的学習をさせるため、よく「サマースクール」を開講する。家での勉強時間に関する質問文の中の「家庭学習」を「学校外での学習」に変更した点については、子どもたちの家庭生活では、放課後、自分の家に限らず、いろいろな場所に行くためである(例:両親が共働きであったり、両親がそろっていなかったりするため、放課後祖父母が子どもの世話をするなど)。「お母さんは私の成績をよく知っている」「お父さんは私の成績をよく知っている」など「父母」に関する質問事項にも家庭の多様性を反映させる必要があり、「家族は私の成績をよく知っている」に変更するなど工夫をしている。男子は「算数」が得意であるとか、男子のほうが勉強熱心であるというような質問がいくつかみられたが、性差に関する質問事項は、ひと昔前ほど拒絶されることは少なくなったといえるが、アメリカ合衆国ではその種の思い込みに敏感であるため注意を要する。

3.日本の調査票にならって学校の成績についての質問を設けたが、アメリカ合衆国の小学生たちは、通常他の子どもたちの成績を知らない(または、関心がない)。アメリカ合衆国の学校や子どもにとって、重要なのはどれだけ熟達したかであり、競争的な順位づけではない。教師は児童の順位づけをしない。しかし、ほとんどの学校で年末に賞を授与している。この賞はさまざまな学習側面を対象としている。例として、教科賞(例:社会科)をはじめ、最優秀クラス市民賞(Best Class Citizen)、最優秀熱心賞(Most Enthusiastic)、最優秀出席賞(Best Attendance)、最優秀向上賞(Most Improved)などがある。自分の学びと他の子どもの学びとの関係性を年末に評価され、子どもたちはそこからヒントを得る。しかしこれには明確な順位づけがあるわけではない。クラスメイトのほうが自分より「算数」ができるということを知ることと、30人中15番と順位がつけられることとは同じではない。恥ずかしい思いをする必要がないのである。

4.最後に、制度上の文化差について述べる。日本語の調査票では「できるだけいい高校や大学に入れるよう、成績を上げたい」という意見に対してどう考えるかを問う質問がある。原文では「できるだけいい高校」に入るため勉強するとしているが、英語の調査票では「ハイスクールを卒業したり、どこかの大学には入れるくらい成績を上げたい」とした。アメリカ合衆国のハイスクールはすべての子が受ける義務教育であり、入学に際しての試験がないのが一般的であるため、アメリカ合衆国の子どもたちには意味をなしていない。ただ、わずかな例外はある。マグネット・スクール(科学などの教科で特別なカリキュラムをもつ公立学校)には入学試験があるが、実際に受験したり、それ自体を知っている子は、全体の1%に満たない。

すでに述べた国という単位での文化差以外に、アメリカ合衆国の都市中心部にみられる文化差がある。

5.教師はもはや親たちのために職務を果たしているようにはみえない。請け負った仕事をこなす技術者のようだ。教師にこれまであった伝統的権威は、事実上なくなってしまった。その結果、児童・生徒は、高い能力があり自分たちとの個人的な関係づくりに長けているような教師だけを尊重するようになった。親たちも子どもたちが望む教師につけるよう努力することになる。小学校ではとくに顕著である。

6.だれもがみな習得できる(All Children Can Learn)という信条は、アメリカ合衆国の小学校教育にすっかり浸透している。したがって、ほとんどの学校で、子どもたちが落伍者の意識をもつのを極力避けようと努力する。当然の結果として、子どもたちは自分の能力を過大視し、実際とかけ離れてしまう。自己の達成度に対する見方にも少なからず影響をおよぼす。これは大学学部生レベルでも深刻な問題となっていて、大学の勉学には競い合いがほとんどみられず、小学校レベルのほうがそれでもまだ競い合いがあると指摘する研究者もいる。ところが有名大学やカレッジの入学は激烈な競争となり、高校生が互いに敵意を抱いたりするようになる。大学やカレッジの有名校には優秀な志願者が集まるので、その選抜基準は学問的能力をはるかに超えるものになってしまう。

7.学校には安全に関する規定が厳重にしかれている。学校を訪問する者は建物の内外でチェックされる。学校の建物にある出口という出口は外部から開けることはできない。児童安全問題の専門家は非常に慎重で、9.11のような事件が発生した場合は、学校をロックダウン(緊急閉鎖)し、親たちはわが子を連れ出すこともできなくなる。
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