学習基本調査・国際6都市調査報告書
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  ヘルシンキの小学校訪問から見えたこと

西島 央(東京大学助教)
  「たとえば算数なら、(4〜10点までの絶対評価で)7〜8点なら十分だが、5〜6点では、将来家賃を払うとき困るので、がんばるよう指導します」。
  ヘルシンキでの学校見学に際して、評価の基準についてうかがったところ、5年生の担任の教師はこのように答えた。
  国際6都市調査で、学業成績について、クラスの中での今の成績、とりたい成績、がんばればとれる成績の3つについてたずねたところ、のように、東京では、がんばればとれる成績よりとりたい成績で「1(上のほう)」と答える小学生が多かったのに対して、ヘルシンキでは、とりたい成績よりがんばればとれる成績で「1(上のほう)」と答える小学生が多かった謎は、この瞬間に解明した。将来の社会生活で必要なものは困らない程度に、つきたい仕事に必要なものはもう少しがんばるようにと、ヘルシンキでは、学校で学ぶことのレリバンス、つまり、将来社会で生活したり仕事をしたりしていくために、今学校で学んでいることがどう関係し、どういう意味があるのかが、非常にはっきりしているのだ。
  そのように理解すると、教育内容や方法、評価のしかた、学校経営のいずれもが、そのレリバンスを具現化するべく構成されていることがよくわかる。学校見学・インタビューを通してとくに強くそう感じた点を5点にまとめて紹介しよう。
表 実際の成績と成績観
(1)どのような授業方法をとっているか
  上述のインタビューに答えてくださった教師の算数の授業では、単位の学習にあたり、児童を立たせて1分経過したと思ったら座るように指示して実験したり、実際に1キロ歩いたりして、時間や長さを体感させたうえで、ワークブックの単位の換算の問題に取り組んでいた。また、多くの教科では、自分で決めた課題にそって調べものをしてまとめる「プロジェクト」と呼ばれる形式の授業が行われていた。その一方で、算数や英語の授業では、日本と同じような一斉授業形式で、問題演習を繰り返す場面もみられた。
  フィンランドの授業というと、問題解決力や思考力や表現力を伸ばす授業で注目されているが、基礎的な学力をおざなりにしているわけではなかった。課題が社会のどこにあるかを気づかせるきっかけづくりをしたり、その解決のために必要な基礎的な学力をつけさせたりもしている。問題解決力などの学力と基礎的な学力とが結びつくことではじめて、社会生活や仕事で役に立つ学力になるととらえているようだ。

(2)どのような教材・教具を整備しているか
  ヘルシンキでは、小学校から高校までは、教科書から文房具、給食に至るまで教育にかかわる費用はすべて無料である。ある学校で校内を案内してくださった教師は、教育予算が少ないので教科書は使いまわしているとおっしゃっていた。ところが、その小学校の美術室、技術室、音楽室といった特別教室は、焼窯、大型旋盤、PA装置など、日本なら専門学科を設置している高校以上でなければ備えていないであろう立派な施設・設備を整えており、その充実ぶりには正直いって相当に驚かされた。
  日本では、教師の質、教育内容や方法の開発、教科書の無償配布といったソフト面の充実で、脆弱な施設・設備を補ってあまりある成果を上げてきた。しかし、教育の内容や方法は、ハードに依存するところが存外に大きい。その点で、フィンランドは、施設・設備が充実している一方で教科書は貸与による使いまわしという、日本とは正反対の状況にある。もちろん施設・設備も教科書も十分にあるのが望ましいのだが、フィンランドは、限られた予算の範囲で、知識の習得・整理を、文字を通して行うよりも、実社会にある現物を目にし、触り、使うことを通して行うようにしている。それにより、教材を通して知識を習得・整理するにとどまらず、学んだことが将来につながることを実感できるのだろう。

(3)学力をどう定義し、どう評価しているか
  評価は、教師が一方的につけるのではなく、教師・保護者・児童で話し合ったり、児童に自己評価させたりしてつけているとのことであった。また、10点満点が何人いたかというようにお互いを意識させることもあるが、基本的には競争意識はなく、10点満点を基準に絶対的にとらえるとともに、自分の中で前回よりよくなったかどうかというように評価するという。その結果、これができると社会生活のどこにつながるか、この仕事につくには何ができる必要があるかがはっきり伝わり、児童も上級生になると自分は何ができるかわかってきて、好きだったりできたりするものはもっとできるようにがんばるし、苦手な科目はまあこのくらいだととらえるようになるそうである。
  “学力”とはいったい何か。その実態は非常に曖昧なものだろう。しかし、私たち日本人は“学力”という言葉でおそらくある一定のイメージを共有することができる。それは、他人との競争による相対的な位置として操作化されるものだ。だから、算数のこれがわかるとか理科のこれがわからないということより、複数教科の総合体としての“学力”が高ければ、将来的に他人との競争に勝ち残り、よりよいとされる仕事についたり、よりお金持ちになったりできるという理解のしかたを長い間共有してきたのではないだろうか。
  一方フィンランドでは、教師も児童も、“学力”をそうは理解していなかった。つまり、今の生活で、または将来過ごしたいと思っている生活をしたりつきたいと思っている仕事をしたりするうえで、知っておくことが望ましいとされることを学び、生活や仕事で十分に使えるだけわかっていることが“学力(が高いこと)”だと理解しているのである。だから、たとえば「よくわかる」という感覚は、問題を出されて1人で解決できることだそうだ。そのことは、当然ながら、複数教科の総合体としての“学力”というとらえ方や、他人との競争による相対的な位置としての“学力”というとらえ方をしないことにつながる。

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