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Between(株)進研アドが発刊する高等教育のオピニオン情報誌
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他大学との違いを知ることによる学生の安堵

 大学の独自性や建学の精神を内側から問うことが少ない現状について、これではいけないのではないかと考え始めたのは、今から10年以上前、1997年のことだった。その頃から唱え出したのが「自校教育」である。学生たちに自分のいる大学はどんなところかを教えるという、たったそれだけの試みだった。
 立教大学で「大学論を読む」という教養科目を担当していて、ふと思いついたのである。「この学生たちは、立教大学に入って来て、今、この教室に座っている。自分は立教大学の教授として、この教壇に立っている。お互いになぜここにいるのか。また、同じ空気を吸っているこの大学はいったいどんな大学なのか。この授業で最も大事なのは、目の前の学生たちと自分とが共存しているこの大学についての知識ではないか」。
 「立教大学を考える」というテーマで2回の授業をした。次の学期には、文学部の総合講義(当時)で、さらに詳しく3時間にわたって話した。歴史と現況を語ったが、反響は予想外の大きさ、深さを持っていた。建学以来の歩みと近代日本史、キリスト教史とのかかわり、政府の宗教政策との関係、大学昇格のいきさつ、戦後占領下の苦難、教育の特色、リベラル・アーツ教育の運動、大学を開く社会人入試の画期性、将来の展望などを実証的に講義すると、思いも寄らず聴き入ってくれる。
 「立教大学を考える」は50〜70人程度のクラスだったが、次に勤めた桜美林大学での同様の授業は、250人のクラスだった。両大学での自校教育への反応は共通していた。「聴きたいことだった」という顔で聴き入ってくれるのだ。
 結論から言うと、学生たちは「他の大学と自分のいる大学との違い」を知って、「安堵した」のである。「違い」といっても、上下の差ではない。偏差値の差、入試難易度の差ということなら、彼らは皆、身にしみて知っている。それがどれほど不幸なことかは、ここでは触れない。彼らが知らないのは、自分のいる大学の特徴と独自性である。
 総合大学同士、ミッションスクール同士、工業大学同士、看護大学同士、そのほか何でもよい、われわれ教員が「同業」と考えている大学の間にさえ、現状についても、また、歴史をたどればなおさら、実に大きな違いがある。その違いこそ、実は「建学の精神」や「独自性」の内容をなしているのだ、ということを学生たちは悟るのである。
 「立教が、明治学院、青山学院とはどうして違う道をたどってきたか、ようやくわかった。クラスに帰って自慢したい」と喜ぶ学生もいれば、「嫌いでたまらなかったこの大学が、卒業直前になって、大変、好きになった」と、講義に感謝する学生もいた。
 つまり、点数や偏差値といった数値や序列でしか認識できなかった大学を、ようやく固有名詞として認識してくれるようになったのである。

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2009年1月に立教大学が開催した自校教育シンポジウムには、約100人が参加した。
国立大学を含む6大学の自校教育の取り組みについて、報告がなされた。

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