リーダーズマインド

Between(株)進研アドが発刊する高等教育のオピニオン情報誌
  PAGE 1/4 次ページ

 LEADER'S
 MIND
 No.11

古き良き伝統に立ち返り
建学の精神に基づいた国際的な教育を行いたい

  LEADER 広島女学院大学学長 長尾ひろみ
   INTERVIEWER 進研アドBetween編集長 長田雅子

家庭に入った後に法廷通訳の仕事を始め、それから大学院へ──。
異色のキャリアを経て母校の学長に就任した長尾ひろみ学長に、
卒業生ならではの視点に立った大学改革のビジョンを聞いた。

大きな摂理に導かれ才能を磨いた日々

長尾ひろみ学長長田 長尾学長が、2010年4月に広島女学院大学の学長に就任されるまでの経緯をお聞かせください。

長尾学長(以下長尾) 私は中学、高校、大学と10年間を広島女学院で過ごし、大学卒業後はすぐに結婚して家庭に入りました。あるとき、娘が通っていたカトリックの幼稚園で母親の懇談会がありました。一人ひとり自己紹介することになったのですが、全員が子どもの名前を挙げて「○○の母でございます」というのを聞いて、私は違和感を覚えました。自己紹介なら自分の名前を言えばいいのにと思ったのです。おそらく、広島女学院で一人の女性として人生を考えるよう教育されてきたことが影響していたのだと思います。
 たまたま同じころ、大宅壮一氏が亡くなり、妻の昌さんが「これまでは、大宅壮一の妻、大宅映子の母として生きてきましたが、主人が亡くなってようやく大宅昌と名乗ります」と話しているのをテレビで見ました。そのとき、「私はそこまで待てない」と思いました。
 私は小学4年生から3年間、父の仕事の都合でアメリカに住んでいたので英語は得意でしたが、「私は英語しかできない」と思い込んでいました。しかし、それからは「私は英語ができる」と発想を切り替えることができました。人は多かれ少なかれ、それぞれ神から才能(タレント)をもらっている。それを使わずに温めているだけでは意味がないと考えるようになったのです。
 娘が小学1年生になったのを契機に英語の同時通訳の専門学校に通い始め、35歳で法廷通訳の仕事を始めました。37歳から3年かけて神戸女学院大学大学院の修士課程を修了し、その後、いくつかの大学の非常勤講師を掛け持ちして、46歳で聖和大学(当時)の助教授になりました。そして、51歳のときに大阪外国語大学大学院の博士課程に入学。60歳になった2010年に、母校の学長として招かれたのです。

長田 長尾学長をそこまで突き動かしたものは何だったのでしょうか。

長尾 自分の力だけではなく、大きな摂理に導かれて、ここまで来たような気がします。私が最初に教員をめざしたのは、本学の2代目学長である広瀬ハマコ先生が初代学長を務められた聖和大学で教鞭を執りたいと思ったからです。大阪外国語大学大学院に入学したときには「広瀬ハマコ奨学金」受給者の第1号に選ばれ、2010年には広瀬先生に次いで2人目の卒業生学長として本学に迎えられました。偶然とは思えない巡り合わせに不思議な縁を感じます。きっと私には大きな仕事が待っている。そうした気持ちで、38年ぶりに母校の土を踏みました。



長田 学び続ける大切さが伝わってきます。学生の皆さんには、ご自身の体験をどのように伝えていらっしゃいますか。

長尾 悲しいことがあっても常に前向きでいよう、といつも学生には言っています。自分が動くと世界が広がるということを私自身が実感しているからです。学び続け、動き続けることが大切だと伝えています。


  PAGE 1/4 次ページ
目次へもどる
大学・短大向けトップへ