大阪学芸高校は、近年、関関同立への合格実績を着実に伸ばしている(図1)。その効果によって、2006年度の高校入試では志願者が2000名以上集まった。しかし、6年前の00年度、大阪学芸高校は危機的な状況にあった。この年、入学者数が激減し、1学年11〜13クラスだったのが8クラスに減ってしまった。
「このままでは学校の存続も危うい」
教頭の近藤永先生は、危機感を募らせていた1人だった。
「進学校でもない。スポーツも強くない。宗教のバックボーンもなく、大学の付属校でもない。学校の特長がなかったのです。少子化の影響で徐々に入学者が減っていましたが、00年度に1学年300名を割り、多くの教師が危機感を抱きました」
それまで何も手を打たなかったわけではない。96年に校名を成器高校から現在の大阪学芸高校へと変え、98年には男女共学の国際コースを新設した。しかし、それらの改革は、志願者増の決め手にはならなかった。
危機感を抱いたのは、現場の教師だけではない。理事会は二つの改革ビジョンを打ち出した。一つは、進学校化だ。特に関関同立の実績向上を目指し、当時22名だった合格者を「5年後50名、10年後100名にする」と数値目標を掲げた。二つめは組織改革だ。当時を知る教師たちは「激しい議論を交わした」と口を揃える。
「本校は校長と教頭以外の教師は横並びの組織でした。それを『特進コース』と『進学コース』それぞれに教頭を置き、学年主任や各分掌の部長を中間管理職と位置づけました。このメンバーで校務会議を運営し、学校の方針を決めるという形に変えたのです。その過程では、ときには激しい議論もありました」(近藤教頭)
教頭をはじめとする約10名の教師たちがミドルリーダーを務め、改革を進めていくことになった。 |